「1年でクビ」から再挑戦で73得点。波乱万丈のJリーガー難波宏明が岐阜で愛されたワケ

カテゴリ:Jリーグ

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2018年12月02日

30歳を過ぎてのキャリアハイ。達成できたふたつの要因とは?

プロキャリアの最初のクラブは横浜FC。6シーズンを過ごして、その後水戸、岐阜と渡り歩いた。(C) SOCCER DIGEST

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 岐阜へ移籍後、30歳を超え初めてキャリアハイの12得点を2年連続で挙げたことも、彼の紆余曲折のサッカー人生とともに記憶に残る。なぜそれができたのか。
「要因は2つあったと思う。ひとつは常に『絶対に成功する、絶対に諦めない』という気持ちを持っていたこと。もうひとつは『クラブへの愛着』」と難波は話す。2012年は0ゴール、13年にレンタル移籍した水戸では1ゴール。両チームとも契約を打ち切られ、再びサッカー以外の道を考え出した時に岐阜から声がかかった。
 
「一番嬉しかった。30歳過ぎの結果を残していない僕を獲得してくれたチーム、(当時の)ラモス瑠偉監督、田口コーチは裏切れないという気持ちだった」
 
 最終ラインの背後へ抜け出す動き出しの鋭さ、ピンポイントでボールに合わせる能力を活かして、プロ通算73得点(リーグ、天皇杯含む)をマーク。J2での65ゴールは歴代14位である。決して超一流の才能を持っていたわけではなく体格にも恵まれてはいなかったが、泥臭いプレーも厭わず、常に貪欲にゴールを求めていた難波。守備でも最後までプレスをかけ、走り続ける姿勢が、魂の男と呼ばれた所以だ。
 
 どこのクラブでも愛される選手だった理由はまだある。「性格上、暗いことは嫌い。自分が楽しくないとみんなも楽しくない。いつも笑顔でいつも元気よくがモットーだった」と話すように常にチームのムードメーカーとなり、それだけではなくトレーニングでは若手を差し置いて先頭を走り声を出し続けた。改革元年となった岐阜へやって来ると、まだまだ意識の低かったチームに対し、他の移籍してきたベテラン選手とともにプロフェッショナルの姿勢を示した。
 
 岐阜での5年は簡単なシーズンではなかった。毎年のようにJ2降格の危機に直面し、オフになると多くのチームメイトが去っていった。特に2016年は夏を迎える前からまったく勝つことができなくなり、監督は解任。難波自身もシーズン当初からコンディションが上がらないことで苦しい時期にチームに貢献できず、悔しさであふれていた。最終節、難波の2得点がJ2残留を決めることになった。しかしその2ゴールよりも、真夏の勝てなかった時期、全体練習の隅で黙々と別メニューをこなしながら、合間にチームメイトに大きな声をかけ続ける姿に、誰もが彼の存在理由を強く感じただろう。
 
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