分かっていても、相手が対応できないところまで質を高める。
志波先生は、「いまでもよく覚えとる。天気が最高に良くて、スタジアムの雰囲気も熱かったな」と振り返りつつ、敵将・小嶺忠敏との駆け引きを紐解いた。
「前半は0-0で折り返したんだ。どっちに転んでもおかしくない内容でしたよ。ただ我々には、常套パターンがあった。ワントップの寺戸(良平)、あるいは山形(恭平)を青柳(雅裕)に代えて、青柳をシャドーに、本山(雅志)を最前線に上げる形だ。より攻撃的にシフトするための交代で、相手は自由に駆け回るようになった本山の神出鬼没な動きに、たいていは振り回される。国見はいつもマンツーマンで守備をしてきた。その日もいつもと変わらずだった。で、本山をマークしていたボランチが、後半が始まってすぐに小嶺さんにこう訊くんだ。『そのままマークしていいんですか?』と。すると『おう、そのまま行け!』と答えていた。一気に押し込むことができたわけです」
マーキングが混乱し、本山にピッタリと付いたボランチまでもが最終ラインに組み込まれた国見。中央にはポッカリとスペースが空き、そこを縦横無尽に攻略したのが宮原裕司だった。ひとつのパーツ交換でゲームを劇的に変化させてしまう。他の強豪校ならエースにもなれた青柳をはじめ、ベンチに控えるバックアッパーの質も、この大会のヒガシは十二分だった。後半15分に右サイドのスペースを駆け上がった古賀大三が先制点を挙げ、同27分には本山との連携から宮原が2点目をゲット。横綱相撲で豪快に寄り切った。
究極の理想があったと、志波さんがポツリ言う。
「分かっていても、相手が対応できないところまで質を高める。シンプル・イズ・ベストの極み。僕はそういうサッカーがしたいし、究極の理想。あの年のチームはそれに近いサッカーをしていたかもしれない。ヒガシ対策を講じて、相手が普段とは違う戦術や選手の使い方をやってきたら、もうこっちのもの。確実に相手のやり方はずれてくる。とくに守備だ。そこがずれたら攻撃も上手く行かない。ひとつも負けなかったのには、そういう背景もあったということ。普段のサッカーができない相手に、我々は勝ちのパターンをはめ込んでいった」
「前半は0-0で折り返したんだ。どっちに転んでもおかしくない内容でしたよ。ただ我々には、常套パターンがあった。ワントップの寺戸(良平)、あるいは山形(恭平)を青柳(雅裕)に代えて、青柳をシャドーに、本山(雅志)を最前線に上げる形だ。より攻撃的にシフトするための交代で、相手は自由に駆け回るようになった本山の神出鬼没な動きに、たいていは振り回される。国見はいつもマンツーマンで守備をしてきた。その日もいつもと変わらずだった。で、本山をマークしていたボランチが、後半が始まってすぐに小嶺さんにこう訊くんだ。『そのままマークしていいんですか?』と。すると『おう、そのまま行け!』と答えていた。一気に押し込むことができたわけです」
マーキングが混乱し、本山にピッタリと付いたボランチまでもが最終ラインに組み込まれた国見。中央にはポッカリとスペースが空き、そこを縦横無尽に攻略したのが宮原裕司だった。ひとつのパーツ交換でゲームを劇的に変化させてしまう。他の強豪校ならエースにもなれた青柳をはじめ、ベンチに控えるバックアッパーの質も、この大会のヒガシは十二分だった。後半15分に右サイドのスペースを駆け上がった古賀大三が先制点を挙げ、同27分には本山との連携から宮原が2点目をゲット。横綱相撲で豪快に寄り切った。
究極の理想があったと、志波さんがポツリ言う。
「分かっていても、相手が対応できないところまで質を高める。シンプル・イズ・ベストの極み。僕はそういうサッカーがしたいし、究極の理想。あの年のチームはそれに近いサッカーをしていたかもしれない。ヒガシ対策を講じて、相手が普段とは違う戦術や選手の使い方をやってきたら、もうこっちのもの。確実に相手のやり方はずれてくる。とくに守備だ。そこがずれたら攻撃も上手く行かない。ひとつも負けなかったのには、そういう背景もあったということ。普段のサッカーができない相手に、我々は勝ちのパターンをはめ込んでいった」