外国のチームとの試合では自分からわざと当たりに…
梅津の言葉にもあるように、井手口がボランチを主戦場にするようになったのはG大阪ジュニアユースに加入してからだ。中学1年生ながらメンバー入りした8月のクラブユース選手権(U―15)では、チーム事情から、また前線でのキープ力とシュートの巧さを買われてFWを務めたが、2年になると完全にボランチとして定着した。
当時の鴨川の井手口評はこうだ。
「過去には『めちゃめちゃ巧いけど守備をしない』選手が多かったなかで、陽介は根本的に守備が嫌いではなかったんでしょうね。攻守の切り替え時にサボることはまずなかった。勘がいいというか、大抵の選手は指導者に『戻れ!』と言われて慌てて帰陣しますが、陽介はこっちが言う前に戻れていたし、パスコースの切り方も、教えるまでもなく自分の感覚でできていました。
だから、当時はどちらかというと攻撃面の指示が多かったように思います。彼の場合は捌きが巧く、ボールを失わないから安定したプレーができるんですが、そのあとですよね。特にボランチをやり始めた頃は、前にスペースがあっても足もとでのプレーを選択しがちだったので、もっとスペースに飛び出せと、口酸っぱく言った記憶があります」
中学2年生で帯同した春のスペイン遠征では、こんなエピソードがあった。
午前中、高校1年生を主体とした中国代表と対戦したG大阪ジュニアユースは、午後からメキシコ代表との試合を予定していたが、その中国戦で井手口は膝を打撲。昼食を終えると、鴨川にこう直訴したという。
「膝が痛いので、メキシコ戦は出られません」
だが、怪我の具合を確認した鴨川は、それが単なる打撲に過ぎないと判断し、厳しく叱咤したそうだ。
「靭帯を痛めたわけでもないし、そのくらいは怪我じゃない。スペインまで来て、メキシコと対戦できるチャンスが目の前にあるのに、それを棒に振るつもりか!」
その時のことを尋ねると井手口自身は、「対戦相手は高校生のチームだし、膝もホンマに痛かったからやりたくなかったけど、めっちゃ怒られたから仕方なくやりました(笑)」と冗談めかして振り返るが、メキシコ戦のピッチに立った井手口は、明らかに体格差のある相手にチームの誰よりも激しく身体をぶつけ、攻守に際立つパフォーマンスを見せた。と同時に、その試合を境に、ボランチとしてのプレーに確かな自信を宿すようにもなった。
当時の鴨川の井手口評はこうだ。
「過去には『めちゃめちゃ巧いけど守備をしない』選手が多かったなかで、陽介は根本的に守備が嫌いではなかったんでしょうね。攻守の切り替え時にサボることはまずなかった。勘がいいというか、大抵の選手は指導者に『戻れ!』と言われて慌てて帰陣しますが、陽介はこっちが言う前に戻れていたし、パスコースの切り方も、教えるまでもなく自分の感覚でできていました。
だから、当時はどちらかというと攻撃面の指示が多かったように思います。彼の場合は捌きが巧く、ボールを失わないから安定したプレーができるんですが、そのあとですよね。特にボランチをやり始めた頃は、前にスペースがあっても足もとでのプレーを選択しがちだったので、もっとスペースに飛び出せと、口酸っぱく言った記憶があります」
中学2年生で帯同した春のスペイン遠征では、こんなエピソードがあった。
午前中、高校1年生を主体とした中国代表と対戦したG大阪ジュニアユースは、午後からメキシコ代表との試合を予定していたが、その中国戦で井手口は膝を打撲。昼食を終えると、鴨川にこう直訴したという。
「膝が痛いので、メキシコ戦は出られません」
だが、怪我の具合を確認した鴨川は、それが単なる打撲に過ぎないと判断し、厳しく叱咤したそうだ。
「靭帯を痛めたわけでもないし、そのくらいは怪我じゃない。スペインまで来て、メキシコと対戦できるチャンスが目の前にあるのに、それを棒に振るつもりか!」
その時のことを尋ねると井手口自身は、「対戦相手は高校生のチームだし、膝もホンマに痛かったからやりたくなかったけど、めっちゃ怒られたから仕方なくやりました(笑)」と冗談めかして振り返るが、メキシコ戦のピッチに立った井手口は、明らかに体格差のある相手にチームの誰よりも激しく身体をぶつけ、攻守に際立つパフォーマンスを見せた。と同時に、その試合を境に、ボランチとしてのプレーに確かな自信を宿すようにもなった。