一時は起き上がることすらままならない状態に。そんな浩司をペトロヴィッチ監督は辛抱強く待った。

2009年シーズンの広島はJ1昇格初年度ながら、ペトロヴィッチ監督の下、目覚ましい快進撃を見せて4位に食い込む。しかし、この頃から浩司の身体には異変が起きていた。(C) SOCCER DIGEST
翌年、熟成が足らなかったチームは守備が崩壊し、J2降格の憂き目に遭ってしまう。だが、ペトロヴィッチ監督の手腕を信じたクラブが指揮官の残留を決断すると、08年に「革命」が起きるのだ。
これまで誰も見たことのない戦術を駆使し、ダイナミックかつテクニカル、圧巻のコンビネーションを見せつけた広島はJ2を圧倒。勝点100、得点99、得失点差+64という圧巻の戦績で、J1に昇格した。
「この年と次の2009年、この時の広島が見せたサッカーのクオリティは、世界的にも類を見ない。私の監督としてのキャリアの中でも最も美しいサッカーを表現できた。だからこそ、私は思う。09年、浩司とカズ(森﨑和幸)のコンディションが万全だったら、2012年を待たずして広島は優勝できたのではないか」
J2とはいえ14得点・7アシストという強烈な数字以上に攻撃を牽引した浩司は、その年の後半、オーバートレーニング症候群が悪化。翌年には起き上がることすらできず、一時は生きることに対する意欲を失うほどの状態に陥った。
サッカー選手としての復帰どころか、普通の生活すらできない。そんな浩司をペトロヴィッチ監督は辛抱強く待った。「浩司がいない広島はベストメンバーではない」と記者会見で言い切り、電話でも「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と日本語で励ました。なんとか回復基調に入った浩司と再会した時、涙を流して抱き合った。
「私は、どうすれば浩司を助けられるのか、本当に考えた。選手と監督というよりも、ひとりの人間として」
夏場に入り、浩司は少し、身体を動かせるようにはなってきた。だがそれでも、練習場には顔を出せずにいた彼と慢性疲労症候群のためにやはり長期離脱を余儀なくされていた兄・和幸を、指揮官は選手たちとの食事会に誘った。
「我々のチームに最高の選手を補強したぞ。紹介しよう。森﨑和幸と森﨑浩司だ」
笑いに包まれる会場。照れ笑いを浮かべる森﨑兄弟。なごやかな雰囲気のなか、これまでとまったく変わらないチームメイトとの触れあいに、ふたりは癒やされた。それから練習に復帰するまで、さほど時間は要さなかった。
これまで誰も見たことのない戦術を駆使し、ダイナミックかつテクニカル、圧巻のコンビネーションを見せつけた広島はJ2を圧倒。勝点100、得点99、得失点差+64という圧巻の戦績で、J1に昇格した。
「この年と次の2009年、この時の広島が見せたサッカーのクオリティは、世界的にも類を見ない。私の監督としてのキャリアの中でも最も美しいサッカーを表現できた。だからこそ、私は思う。09年、浩司とカズ(森﨑和幸)のコンディションが万全だったら、2012年を待たずして広島は優勝できたのではないか」
J2とはいえ14得点・7アシストという強烈な数字以上に攻撃を牽引した浩司は、その年の後半、オーバートレーニング症候群が悪化。翌年には起き上がることすらできず、一時は生きることに対する意欲を失うほどの状態に陥った。
サッカー選手としての復帰どころか、普通の生活すらできない。そんな浩司をペトロヴィッチ監督は辛抱強く待った。「浩司がいない広島はベストメンバーではない」と記者会見で言い切り、電話でも「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と日本語で励ました。なんとか回復基調に入った浩司と再会した時、涙を流して抱き合った。
「私は、どうすれば浩司を助けられるのか、本当に考えた。選手と監督というよりも、ひとりの人間として」
夏場に入り、浩司は少し、身体を動かせるようにはなってきた。だがそれでも、練習場には顔を出せずにいた彼と慢性疲労症候群のためにやはり長期離脱を余儀なくされていた兄・和幸を、指揮官は選手たちとの食事会に誘った。
「我々のチームに最高の選手を補強したぞ。紹介しよう。森﨑和幸と森﨑浩司だ」
笑いに包まれる会場。照れ笑いを浮かべる森﨑兄弟。なごやかな雰囲気のなか、これまでとまったく変わらないチームメイトとの触れあいに、ふたりは癒やされた。それから練習に復帰するまで、さほど時間は要さなかった。