1984年――“実現しないはずの対決”はブラジルが雪辱果たす。
次に両国が対峙したのは、ヘルシンキ大会から32年後の84年ロサンゼルス大会。場所はカリフォルニア州のスタンフォード・スタジアムだった。
しかし、本来ならこの対決は実現しないはずのものであった。というのも、西ドイツは予選敗退を喫しており、出場資格を有していなかったのである。
ところが当時は、東西冷静の真っただ中であり、前回モスクワ大会でアメリカをはじめとする西側陣営が出場をボイコット。その報復として4年後、ソ連など予選を突破した共産圏の国が多く渡米を拒絶した結果、西ドイツに出場権が回ってきた。
この大会では、五輪へのプロ参加が容認され、サッカーについては「ワールドカップ本大会&予選に出場した経験を持つ欧州・南米の選手以外」という条件付きでプロ選手が登録メンバーに名を連ねることとなった。
ブラジルは、17人の登録メンバーのうち10人をインテルナシオナルから招集。そのなかには、後にA代表に定着する選手も多く、GKジウマールは94年アメリカW杯にも出場し、95年からはセレッソ大阪でもゴールマウスを守ったことでもお馴染みだ(現在はブラジル代表スタッフ)。
マウロ・ガウボンは86年メキシコ、90年イタリアW杯に出場したブラジルを代表するCBであり、FWのミルトン・クルスは日本リーグの読売(現・東京ヴェルディ)、日産(現・横浜F・マリノス)、Jリーグ開幕前の鹿島アントラーズでもプレーした。
そしてドゥンガ。94年にはキャプテンとしてブラジルを世界制覇に導き、ジュビロ磐田でプレーした近代ボランチの始祖で、2度目のブラジル代表監督を務めた彼は、21歳でこのロス五輪に臨み、攻守での堅実なプレーと正確なロングパスで中盤に君臨した。
一方の西ドイツには、すでに同年に開催されたEURO84にも出場していたギド・ブッフバルト、アンドレアス・ブレーメがおり、いずれも高い攻撃力も備えた守備の選手として90年W杯で優勝に大貢献。前者は浦和レッズのレジェンドとしても記憶されている。
こちらも浦和でプレーした経験があるウーベ・ラーンは期待のMFとして86年W杯に出場し、フランク・ミル(EURO88出場)やディーター・シャッツシュナイダーはFWとして高い評価を得ていた。
グループステージの2戦目、ともに1勝を挙げて臨んだ一戦では、一進一退の攻防を展開。特に西ドイツは両サイドから積極的に攻めてチャンスを作り、ラーンが惜しいシュートを放ったりもした。
対するブラジルは、前述の通りインテルナシオナル所属選手が多く単独チームの様相を呈していたものの、組織プレーよりも個人の力と長いパスで状況を打開することが多かった。
延長戦の可能性も出てきた86分、ブラジルは背番号10のジウマール・ポポカが単独突破を試みて倒され、ゴール正面の好位置でFKを獲得。これをポポカ自身が左足でゴール左隅に叩き込み、貴重な先制ゴールを決めた。
ブラジルはこの1点を守り切り、その後はモロッコも下して全勝でグループステージ首位。準々決勝ではカナダをPK戦の末に下し、準決勝ではフランコ・バレージらを擁するイタリアを撃破したが、決勝ではフランスに零封され(0-2)、初の決勝進出で初優勝はならなかった。
一方の西ドイツは、グループステージを2位通過したが、準々決勝敗退。52年大会同様、またしてもユーゴスラビアに行く手を阻まれた(2-5)。
◇1984年ロサンゼルス大会
グループステージ
ブラジル 1-0 西ドイツ
得点:ポポカ(86分)
しかし、本来ならこの対決は実現しないはずのものであった。というのも、西ドイツは予選敗退を喫しており、出場資格を有していなかったのである。
ところが当時は、東西冷静の真っただ中であり、前回モスクワ大会でアメリカをはじめとする西側陣営が出場をボイコット。その報復として4年後、ソ連など予選を突破した共産圏の国が多く渡米を拒絶した結果、西ドイツに出場権が回ってきた。
この大会では、五輪へのプロ参加が容認され、サッカーについては「ワールドカップ本大会&予選に出場した経験を持つ欧州・南米の選手以外」という条件付きでプロ選手が登録メンバーに名を連ねることとなった。
ブラジルは、17人の登録メンバーのうち10人をインテルナシオナルから招集。そのなかには、後にA代表に定着する選手も多く、GKジウマールは94年アメリカW杯にも出場し、95年からはセレッソ大阪でもゴールマウスを守ったことでもお馴染みだ(現在はブラジル代表スタッフ)。
マウロ・ガウボンは86年メキシコ、90年イタリアW杯に出場したブラジルを代表するCBであり、FWのミルトン・クルスは日本リーグの読売(現・東京ヴェルディ)、日産(現・横浜F・マリノス)、Jリーグ開幕前の鹿島アントラーズでもプレーした。
そしてドゥンガ。94年にはキャプテンとしてブラジルを世界制覇に導き、ジュビロ磐田でプレーした近代ボランチの始祖で、2度目のブラジル代表監督を務めた彼は、21歳でこのロス五輪に臨み、攻守での堅実なプレーと正確なロングパスで中盤に君臨した。
一方の西ドイツには、すでに同年に開催されたEURO84にも出場していたギド・ブッフバルト、アンドレアス・ブレーメがおり、いずれも高い攻撃力も備えた守備の選手として90年W杯で優勝に大貢献。前者は浦和レッズのレジェンドとしても記憶されている。
こちらも浦和でプレーした経験があるウーベ・ラーンは期待のMFとして86年W杯に出場し、フランク・ミル(EURO88出場)やディーター・シャッツシュナイダーはFWとして高い評価を得ていた。
グループステージの2戦目、ともに1勝を挙げて臨んだ一戦では、一進一退の攻防を展開。特に西ドイツは両サイドから積極的に攻めてチャンスを作り、ラーンが惜しいシュートを放ったりもした。
対するブラジルは、前述の通りインテルナシオナル所属選手が多く単独チームの様相を呈していたものの、組織プレーよりも個人の力と長いパスで状況を打開することが多かった。
延長戦の可能性も出てきた86分、ブラジルは背番号10のジウマール・ポポカが単独突破を試みて倒され、ゴール正面の好位置でFKを獲得。これをポポカ自身が左足でゴール左隅に叩き込み、貴重な先制ゴールを決めた。
ブラジルはこの1点を守り切り、その後はモロッコも下して全勝でグループステージ首位。準々決勝ではカナダをPK戦の末に下し、準決勝ではフランコ・バレージらを擁するイタリアを撃破したが、決勝ではフランスに零封され(0-2)、初の決勝進出で初優勝はならなかった。
一方の西ドイツは、グループステージを2位通過したが、準々決勝敗退。52年大会同様、またしてもユーゴスラビアに行く手を阻まれた(2-5)。
◇1984年ロサンゼルス大会
グループステージ
ブラジル 1-0 西ドイツ
得点:ポポカ(86分)