誰もが自信と希望を失った時代。しかしその少年だけは違った。
1950年ワールドカップ。戦後最初の大会のホストカントリーとして、ブラジルはリオデジャネイロに20万人収容の新スタジアム「マラカナン」を建設し、世界から12か国を迎えた。
1次リーグの初戦でメキシコに4-0と圧勝した開催国は、スイスには2-2と引き分けるも、最終節でユーゴスラビアを2-0で下し、首位での決勝リーグ進出を果たした。
伝説の名FWアデミールをはじめ、ニウトン・サントス、シコ、ジジーニョら、各ポジションにタレントを擁したブラジルは「ドリームチーム」であり、優勝候補の筆頭。試合を重ねるごとに、国民の優勝への期待は高まる一方だった。
決勝リーグは、ブラジル、ウルグアイ、スウェーデン、スペインの4か国による総当たりで、首位のチームが優勝となる。ブラジルは初戦でスウェーデンを7-1で一蹴し、スペインにも6-1の大勝を飾った。
最終戦で対戦するウルグアイは、ここまで1勝1分け。ブラジルは引き分けでも優勝が決まる、極めて有利な状況を手にしていた。
7月16日、マラカナン。ブラジル国民はすでに優勝を確信。試合前から祝賀ムードに溢れていたが、それはセレソンも同様だった。
しかし、このブラジル人特有の油断が、運命の歯車を狂わせてしまう。勢い余って序盤から攻めに攻めたセレソンは、47分にフリアカのゴールで先制したところまでは良かったが、時間の経過とともに疲労困憊となり、66分に同点とされ、そして79分には決勝点を許してしまった。
タイムアップの瞬間、20万人の大観衆を飲み込んだ巨大なスタジアムは静まり返り、そのなかで心臓麻痺を起こして急死する者、絶望して自ら命を絶つ者まで出た。これが、サッカー界の歴史に残る「マラカナッソ(マラカナンの悲劇)」である。
このひとつの敗北は、ブラジル・サッカーに暗い影を落とした。敗戦の犯人探しが行なわれ、2ゴールを許して疫病神扱いされたGKのモアシール・バルボーザは、これを引きずりながら以後の人生を過ごすことを余儀なくされる。
また、縁起の悪い白の代表ユニホームは捨て去られ、新たに黄色(=カナリア色)が採用されることとなった。
捨てたのはユニホームのカラーだけではない。セレソン、そしてブラジル・サッカーはそれまでの自分たちのスタイルも自ら否定。娯楽性に富んだ個人のテクニックと、それぞれの創造力による即興性を活かした、何にも縛られない自由なサッカーを捨てようとしたのだ。
トラウマを払拭するには、組織のなかで個々が決められた役割を確実にこなすという、欧州の組織的なサッカーを取り入れるのが必要だという流れが生まれたのだ。
しかし、そう簡単に暗黒のトンネルを抜け出せることはなく、4年後のスイスW杯では、ジジ、ババ、ジト、ジャウマ・サントスといった名手を擁するチームを名将ゼゼ・モレイラが率いたが、チームはベスト8で敗退し、失意の帰国を余儀なくされる。
しかも、この大会のベストチームであるハンガリーと対峙した準々決勝では、相手のスピーディーかつ統率の取れたプレーに手も足も出ず2-4で完敗。さらにこの試合は荒れに荒れ、3人の退場者を出しただけでなく、試合後も監督、そして記者まで巻き込んでの大乱闘が展開された。
この「ベルンの戦い」で、ブラジルは恥の上塗りをする結果となり、ますますサッカー界での価値を落とし、自信と国民の信頼を失う羽目となってしまった。
先の見えないこの時期、まさか4年後の大会で、セレソンが世界の頂点に立つとは、誰も想像がつかなかった。ただひとりを除いては――。
われわれはなぜ映画「ペレ~伝説の誕生」に魅せられるのか?
遡ること4年前、サンパウロに、「マラカナッソ」を目の当たりにして悲嘆に暮れる父親を懸命になだめる9歳の少年がいた。
「いつか絶対、僕がブラジルをW杯で優勝させるから泣かないで」
当時、草サッカーに明け暮れていたエドソン・アランテス・ド・ナシメントという名の少年は、家族からはジッコと呼ばれていたが、友だちからは「ペレ」と呼ばれた。
憧れの選手の名前を正しく発音できず、いつしかそれが彼自身の呼び名になったわけだが、当時の彼はこう呼ばれることをとても嫌がっていた。
布を丸めたものや果物をボール代わりにして、裸足で路地を駆け回る少年が心に誓った世界一という途方もない夢。しかしこの時から、ブラジルの復活・復権への動きは、静かに始まっていたのである。(第2回に続く)
1次リーグの初戦でメキシコに4-0と圧勝した開催国は、スイスには2-2と引き分けるも、最終節でユーゴスラビアを2-0で下し、首位での決勝リーグ進出を果たした。
伝説の名FWアデミールをはじめ、ニウトン・サントス、シコ、ジジーニョら、各ポジションにタレントを擁したブラジルは「ドリームチーム」であり、優勝候補の筆頭。試合を重ねるごとに、国民の優勝への期待は高まる一方だった。
決勝リーグは、ブラジル、ウルグアイ、スウェーデン、スペインの4か国による総当たりで、首位のチームが優勝となる。ブラジルは初戦でスウェーデンを7-1で一蹴し、スペインにも6-1の大勝を飾った。
最終戦で対戦するウルグアイは、ここまで1勝1分け。ブラジルは引き分けでも優勝が決まる、極めて有利な状況を手にしていた。
7月16日、マラカナン。ブラジル国民はすでに優勝を確信。試合前から祝賀ムードに溢れていたが、それはセレソンも同様だった。
しかし、このブラジル人特有の油断が、運命の歯車を狂わせてしまう。勢い余って序盤から攻めに攻めたセレソンは、47分にフリアカのゴールで先制したところまでは良かったが、時間の経過とともに疲労困憊となり、66分に同点とされ、そして79分には決勝点を許してしまった。
タイムアップの瞬間、20万人の大観衆を飲み込んだ巨大なスタジアムは静まり返り、そのなかで心臓麻痺を起こして急死する者、絶望して自ら命を絶つ者まで出た。これが、サッカー界の歴史に残る「マラカナッソ(マラカナンの悲劇)」である。
このひとつの敗北は、ブラジル・サッカーに暗い影を落とした。敗戦の犯人探しが行なわれ、2ゴールを許して疫病神扱いされたGKのモアシール・バルボーザは、これを引きずりながら以後の人生を過ごすことを余儀なくされる。
また、縁起の悪い白の代表ユニホームは捨て去られ、新たに黄色(=カナリア色)が採用されることとなった。
捨てたのはユニホームのカラーだけではない。セレソン、そしてブラジル・サッカーはそれまでの自分たちのスタイルも自ら否定。娯楽性に富んだ個人のテクニックと、それぞれの創造力による即興性を活かした、何にも縛られない自由なサッカーを捨てようとしたのだ。
トラウマを払拭するには、組織のなかで個々が決められた役割を確実にこなすという、欧州の組織的なサッカーを取り入れるのが必要だという流れが生まれたのだ。
しかし、そう簡単に暗黒のトンネルを抜け出せることはなく、4年後のスイスW杯では、ジジ、ババ、ジト、ジャウマ・サントスといった名手を擁するチームを名将ゼゼ・モレイラが率いたが、チームはベスト8で敗退し、失意の帰国を余儀なくされる。
しかも、この大会のベストチームであるハンガリーと対峙した準々決勝では、相手のスピーディーかつ統率の取れたプレーに手も足も出ず2-4で完敗。さらにこの試合は荒れに荒れ、3人の退場者を出しただけでなく、試合後も監督、そして記者まで巻き込んでの大乱闘が展開された。
この「ベルンの戦い」で、ブラジルは恥の上塗りをする結果となり、ますますサッカー界での価値を落とし、自信と国民の信頼を失う羽目となってしまった。
先の見えないこの時期、まさか4年後の大会で、セレソンが世界の頂点に立つとは、誰も想像がつかなかった。ただひとりを除いては――。
われわれはなぜ映画「ペレ~伝説の誕生」に魅せられるのか?
遡ること4年前、サンパウロに、「マラカナッソ」を目の当たりにして悲嘆に暮れる父親を懸命になだめる9歳の少年がいた。
「いつか絶対、僕がブラジルをW杯で優勝させるから泣かないで」
当時、草サッカーに明け暮れていたエドソン・アランテス・ド・ナシメントという名の少年は、家族からはジッコと呼ばれていたが、友だちからは「ペレ」と呼ばれた。
憧れの選手の名前を正しく発音できず、いつしかそれが彼自身の呼び名になったわけだが、当時の彼はこう呼ばれることをとても嫌がっていた。
布を丸めたものや果物をボール代わりにして、裸足で路地を駆け回る少年が心に誓った世界一という途方もない夢。しかしこの時から、ブラジルの復活・復権への動きは、静かに始まっていたのである。(第2回に続く)