進取の姿勢は間違いではないが……。
発展途上にある日本サッカーは、どうしても世界標準のサッカーと比較し、そこからなにかを得ようとする。進取の姿勢は、間違ってはいない。しかしながら、なんでもかんでも採り入れても、ひどいことになる。物の考え方や人との付き合い方など一つひとつが異なるからだ。
例えば、欧州のサッカー少年たちは、幼くして議論することに慣れている。目上のコーチに対しても、平然と反論する。彼らはそうした同等のコミュニケーションによって、サッカー脳を向上させる。そこで「対話が上手い」と評判の欧州の監督を日本に連れてきたとする。しかし日本の子どもたちは、欧州の子どもたちとはまるで違った意思疎通構造を持っている。それは暗黙の了解、もしくは目上の人への沈黙といったものだろうか。
日本人選手は一般的に、欧州や南米の選手よりも成長に時間がかかる。欧米では若手とは呼べない「五輪世代」、もしくは五輪後に頭角を現わす選手が少なくない。その理由は、自立心が低く、個人主義が薄く、精神的成熟が遅いからだろう。
一方で、日本人は物事をしっかりと捉えながら成長する意志は強く、早熟型よりも晩成型が多い。これは敗北、もしくは失敗からの学習を意味している。
「抑制や不足の中でこそ自らの考えを絞り出す」
その性質を、我々日本人は好むと好まざるにかかわらず持っているのかもしれない。落ちこぼれ、追い込まれ、そこから立ち上がる。その逞しさこそが、日本人の強さの源ではないか。本田圭佑、長友佑都、岡崎慎司などはその象徴だろう。
“折れない心”という言葉があるが、折れない心はなく、折れた心が再生することで強くなる。それは日本人の生き方そのものであるかもしれない。
敗北から学べるか? 日本サッカーはその自問自答で成長するしかない。
文:小宮 良之(スポーツライター)
【著者プロフィール】
小宮良之(こみや・よしゆき)/1972年、横浜市生まれ。大学在学中にスペインのサラマンカ大に留学。2001年にバルセロナへ渡り、ジャーナリストに。選手のみならず、サッカーに全てを注ぐ男の生き様を数多く描写する。『おれは最後に笑う』(東邦出版)など多数の書籍を出版しており、2016年2月にはヘスス・スアレス氏との共著『「戦術」への挑戦状 フットボールなで斬り論』(東邦出版)を上梓した。
例えば、欧州のサッカー少年たちは、幼くして議論することに慣れている。目上のコーチに対しても、平然と反論する。彼らはそうした同等のコミュニケーションによって、サッカー脳を向上させる。そこで「対話が上手い」と評判の欧州の監督を日本に連れてきたとする。しかし日本の子どもたちは、欧州の子どもたちとはまるで違った意思疎通構造を持っている。それは暗黙の了解、もしくは目上の人への沈黙といったものだろうか。
日本人選手は一般的に、欧州や南米の選手よりも成長に時間がかかる。欧米では若手とは呼べない「五輪世代」、もしくは五輪後に頭角を現わす選手が少なくない。その理由は、自立心が低く、個人主義が薄く、精神的成熟が遅いからだろう。
一方で、日本人は物事をしっかりと捉えながら成長する意志は強く、早熟型よりも晩成型が多い。これは敗北、もしくは失敗からの学習を意味している。
「抑制や不足の中でこそ自らの考えを絞り出す」
その性質を、我々日本人は好むと好まざるにかかわらず持っているのかもしれない。落ちこぼれ、追い込まれ、そこから立ち上がる。その逞しさこそが、日本人の強さの源ではないか。本田圭佑、長友佑都、岡崎慎司などはその象徴だろう。
“折れない心”という言葉があるが、折れない心はなく、折れた心が再生することで強くなる。それは日本人の生き方そのものであるかもしれない。
敗北から学べるか? 日本サッカーはその自問自答で成長するしかない。
文:小宮 良之(スポーツライター)
【著者プロフィール】
小宮良之(こみや・よしゆき)/1972年、横浜市生まれ。大学在学中にスペインのサラマンカ大に留学。2001年にバルセロナへ渡り、ジャーナリストに。選手のみならず、サッカーに全てを注ぐ男の生き様を数多く描写する。『おれは最後に笑う』(東邦出版)など多数の書籍を出版しており、2016年2月にはヘスス・スアレス氏との共著『「戦術」への挑戦状 フットボールなで斬り論』(東邦出版)を上梓した。