23歳のラップタイムは遅すぎるが、一気に加速がつく予感も。
そんなレフティを救ったのは、先輩の天才レフティだった。きっとレフティ同士は、右利きの凡人には理解し難い感性で通じ合っているに違いない。名波監督は小林祐希を、10番で輝き続けたユース年代までと同じくトップ下に引き上げ、信頼して使い続けた。一転して背番号も「4」と大幅減になった。
昨年の夏に別件の取材で磐田を訪問し、久々に祐希に再会した。常時出場はしていたが、納得のプレーができていない。そう吐露され「こんな時、どうすればいいんですかね」と向けられた。
「いい? オレ、サッカー選手じゃないからさ」
笑って別れたが、きっとそんなことは指揮官がお見通しだった。しばらく祐希はスタメンから外れた。しかし、復帰してからJ1昇格を決めるゴールへと上昇軌道を描いた。
1999年、バルセロナのカンプ・ノウで欧州チャンピオンズ・リーグ決勝が行なわれた。祐希にはリバウドの10番、愚息にグアルディオラの4番のユニホームを土産にした。今にしてみれば祐希にペップのほうが良かったかな、とも思う。
小学3年生までの祐希を知る立場からすれば、23歳のラップタイムは遅過ぎる。しかし荒波を乗り越えてきて、一気に加速がつく予感も十分にある。今なら見上げる日本代表の4番も、それほど高すぎるとは感じていないかもしれない。
文:加部 究( スポーツライター)
昨年の夏に別件の取材で磐田を訪問し、久々に祐希に再会した。常時出場はしていたが、納得のプレーができていない。そう吐露され「こんな時、どうすればいいんですかね」と向けられた。
「いい? オレ、サッカー選手じゃないからさ」
笑って別れたが、きっとそんなことは指揮官がお見通しだった。しばらく祐希はスタメンから外れた。しかし、復帰してからJ1昇格を決めるゴールへと上昇軌道を描いた。
1999年、バルセロナのカンプ・ノウで欧州チャンピオンズ・リーグ決勝が行なわれた。祐希にはリバウドの10番、愚息にグアルディオラの4番のユニホームを土産にした。今にしてみれば祐希にペップのほうが良かったかな、とも思う。
小学3年生までの祐希を知る立場からすれば、23歳のラップタイムは遅過ぎる。しかし荒波を乗り越えてきて、一気に加速がつく予感も十分にある。今なら見上げる日本代表の4番も、それほど高すぎるとは感じていないかもしれない。
文:加部 究( スポーツライター)