「プロになった途端、崖っぷち」
サッカーをやめていた状況でJリーグが開幕し、希望を与えてくれた。そのインパクトがよほど大きかったのだろう。実際、憲剛さんも「タイミングが絶妙でした」と答えている。
最初の質問にして濃厚な回答である。一瞬たりとも気を抜けないと自分に言い聞かせつつ「サッカーが遊びから仕事に変わった瞬間は?」と問うと、憲剛さんは悩む素振りもなく「2003年シーズンの練習初日です」と断言。川崎フロンターレの一員になって、まさにプロの一歩目を歩み出すタイミングでスイッチが切り替わったという。
「今でも覚えています。あの練習初日は強烈でした」
どう強烈だったのか。当時の心境も併せて訊くと、憲剛さんは懐かしそうな表情で言葉を並べてくれた。
「(他の選手と)一緒に走ったり、練習したりする中で自分がめちゃくちゃ緊張していることに気づいて。遊びのパス回しですらドキドキしちゃって(苦笑)。(パス回しの)両隣は石塚啓次(元・東京ヴェルディなど)さん、鬼木達さん(元・鹿島アントラーズ/現・川崎監督)で震えていましたからね、緊張で」
石塚さんは山城高、鬼木さんは市立船橋高出身で、「高校サッカーが大好きだった」憲剛さんにとってはスーパースターだった。そんなふたりに挟まれているのだから、緊張して当然である。それに、憲剛さんにはある「引け目があった」。
「(1部リーグの大学ではなく)2部リーグの中央大学から(川崎に)加入しているので、引け目があった。『なんだ、コイツ』と思われたくないから、余計な力が入っちゃうんです。ちゃんとプレーできる姿を見せなくちゃいけないという変なプレッシャーがあって、全然上手くいかなくて。今思い出すと、笑っちゃいます。そんなのでミスする?って(笑)。僕の引退セレモニーで岡山一成さん(元・川崎など)も当時を回想して言っていましたから、『この子、大丈夫か』って。それくらいダメでした」
地獄の練習初日、そう表現しても大袈裟ではない。
「プロフットボーラーになった途端、崖っぷち。振り向いたら、すぐ崖みたいな。めちゃくちゃ怖かったです。練習初日が終わった時、やばいって思いましたよ。この感じで続けたら、首を切られるって。確か1年契約だったので、その日を境にプロフットボーラーという職業の怖さが日々のしかかっていきました」
最初の質問にして濃厚な回答である。一瞬たりとも気を抜けないと自分に言い聞かせつつ「サッカーが遊びから仕事に変わった瞬間は?」と問うと、憲剛さんは悩む素振りもなく「2003年シーズンの練習初日です」と断言。川崎フロンターレの一員になって、まさにプロの一歩目を歩み出すタイミングでスイッチが切り替わったという。
「今でも覚えています。あの練習初日は強烈でした」
どう強烈だったのか。当時の心境も併せて訊くと、憲剛さんは懐かしそうな表情で言葉を並べてくれた。
「(他の選手と)一緒に走ったり、練習したりする中で自分がめちゃくちゃ緊張していることに気づいて。遊びのパス回しですらドキドキしちゃって(苦笑)。(パス回しの)両隣は石塚啓次(元・東京ヴェルディなど)さん、鬼木達さん(元・鹿島アントラーズ/現・川崎監督)で震えていましたからね、緊張で」
石塚さんは山城高、鬼木さんは市立船橋高出身で、「高校サッカーが大好きだった」憲剛さんにとってはスーパースターだった。そんなふたりに挟まれているのだから、緊張して当然である。それに、憲剛さんにはある「引け目があった」。
「(1部リーグの大学ではなく)2部リーグの中央大学から(川崎に)加入しているので、引け目があった。『なんだ、コイツ』と思われたくないから、余計な力が入っちゃうんです。ちゃんとプレーできる姿を見せなくちゃいけないという変なプレッシャーがあって、全然上手くいかなくて。今思い出すと、笑っちゃいます。そんなのでミスする?って(笑)。僕の引退セレモニーで岡山一成さん(元・川崎など)も当時を回想して言っていましたから、『この子、大丈夫か』って。それくらいダメでした」
地獄の練習初日、そう表現しても大袈裟ではない。
「プロフットボーラーになった途端、崖っぷち。振り向いたら、すぐ崖みたいな。めちゃくちゃ怖かったです。練習初日が終わった時、やばいって思いましたよ。この感じで続けたら、首を切られるって。確か1年契約だったので、その日を境にプロフットボーラーという職業の怖さが日々のしかかっていきました」
仕事がなくなる恐怖。プロフットボーラーは、そうした不安とも戦わなければならない。定められた教育課程をクリアすれば卒業できた学生時代とは明らかに違う。その現実を突きつけられた22歳の若者(当時の憲剛さん)が苦しむのも当然だ。
「(川崎に)入るまで恐怖は一切ありませんでした。未来が光り輝いていて、中1の時に夢見た舞台に自分がたどり着いて『よし、ここからだ』と。入団内定したのが2002年の10月だったので、そこから1月まで(大学の)クラスメイトからも『おお! Jリーガー! 頑張ってこいよ!』みたいな感じで見られて、ちょっと昂った状態で入団会見もして夢と希望に満ち溢れているところから、1日でドーンと真っ逆さまに落とされるわけです」
理想と現実のギャップに苦しむ社会人は多いはずだ。就職した企業に馴染めず、早期退社を決意する人がいるとのニュースを目にした記憶がある。おそらく学生時代も含め、“1年目”は何事も難しい。事実、練習初日から圧倒された憲剛さんも、その後のキャンプでさらなる衝撃を受けることになる。
<パート2に続く>
取材・文●白鳥和洋(サッカーダイジェストTV編集長)
<プロフィール>
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都出身。川崎フロンターレ一筋を貫いたワンクラブマンで、2020年限りで現役を引退。川崎でリレーションズ・オーガナイザー(FRO)、JFAロールモデルコーチなどを務め、コメンテーターとしても活躍中だ。
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「(川崎に)入るまで恐怖は一切ありませんでした。未来が光り輝いていて、中1の時に夢見た舞台に自分がたどり着いて『よし、ここからだ』と。入団内定したのが2002年の10月だったので、そこから1月まで(大学の)クラスメイトからも『おお! Jリーガー! 頑張ってこいよ!』みたいな感じで見られて、ちょっと昂った状態で入団会見もして夢と希望に満ち溢れているところから、1日でドーンと真っ逆さまに落とされるわけです」
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<パート2に続く>
取材・文●白鳥和洋(サッカーダイジェストTV編集長)
<プロフィール>
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都出身。川崎フロンターレ一筋を貫いたワンクラブマンで、2020年限りで現役を引退。川崎でリレーションズ・オーガナイザー(FRO)、JFAロールモデルコーチなどを務め、コメンテーターとしても活躍中だ。
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