オシムの『空は広い』という言葉
異国での日々を、水野が改めて振り返る
「俊さんのストイックな部分っていうのは、身近にいてものすごく学びました。今でこそ、セルティックは日本で馴染みのあるクラブになりましたけど、あの頃はまだまだ遠い存在だった。しかも、僕が行った時は中盤の選手(トーマス・グラヴェセンやエイダン・マクギーディなど)が全員MVPを取っていたし、各国代表でレギュラーを取っているレベルの選手ばかりが並んでいて、本当に難しかった。
さらに言うと、当時のスコットランドリーグは21歳以下の選手を18人の中に3人入れなきゃいけなかった。僕は当時22歳だったので、そこには入れず、なおかつベンチには各ポジション1人ずつしかバックアップとして入れないので、本当に厳しい状況でした。
雨の多いピッチを含めて、不慣れな環境に初めて移籍するわけだから、適応するにはやっぱり時間がかかる、と。監督の(ゴードン・)ストラカンもそういう考えだったので、最初はU-21チームからスタートしたんです。そんな時に僕は怪我をしてしまった。そういう時に俊さんのストイックさを見て、前向きになろうと自分に言い聞かせていましたね」
「俊さんのストイックな部分っていうのは、身近にいてものすごく学びました。今でこそ、セルティックは日本で馴染みのあるクラブになりましたけど、あの頃はまだまだ遠い存在だった。しかも、僕が行った時は中盤の選手(トーマス・グラヴェセンやエイダン・マクギーディなど)が全員MVPを取っていたし、各国代表でレギュラーを取っているレベルの選手ばかりが並んでいて、本当に難しかった。
さらに言うと、当時のスコットランドリーグは21歳以下の選手を18人の中に3人入れなきゃいけなかった。僕は当時22歳だったので、そこには入れず、なおかつベンチには各ポジション1人ずつしかバックアップとして入れないので、本当に厳しい状況でした。
雨の多いピッチを含めて、不慣れな環境に初めて移籍するわけだから、適応するにはやっぱり時間がかかる、と。監督の(ゴードン・)ストラカンもそういう考えだったので、最初はU-21チームからスタートしたんです。そんな時に僕は怪我をしてしまった。そういう時に俊さんのストイックさを見て、前向きになろうと自分に言い聞かせていましたね」
水野にしてみれば、日本代表デビューを果たし、2008年の北京五輪が目前に迫っているタイミングで、リスクを冒して日本を離れたわけだが、結果的には全てを逃すという苦い経験をすることになった。
「『五輪に出てから海外に行ったほうがいい』という意見の人が9割で、ほとんどが反対意見を言うようななかでの海外移籍だったけど、僕自身は覚悟を持って行ったし、チャレンジに対して、全然悔いはない。チャレンジをしないほうが、悔いが残っていたと思います。2005年のワールドユースに出て、世界レベルを体感した時点で、『この先、ずっと国内でやっていても成長はない』くらいの感覚を持ったので、どうしても海外に出たかった。オシムさんの『空は広い』という言葉も大きかったですけど、そこは絶対でしたね」
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