3得点は当たり前。伝説のゴールよりも大切だったのは…
そもそも、ブラジル代表として3度のワールドカップに出場(78年、82年、86年)するなど、母国でも随一の名手として名を馳せたジーコは、なぜ日本行きを決めたのだろうか。
「鹿島に来ることになったのは、いろんな偶然が重なった結果です。最初に日本に来たのは81年、フラメンゴの一員としてトヨタカップに出場した時でした。その後、88年か89年に名古屋(前進のトヨタ自動車工業サッカー部)から声がかかりましたが、当時日本リーグ2部に所属していたチームは、そのシーズンに1部昇格を逃し、移籍話は立ち消えになりました」
その後、89年に現役引退を表明し、90年に母国のスポーツ担当大臣に就任。同年12月にトヨタカップ(イタリアのミランとパラグアイのオリンピアが対戦。3-0で前者が勝利)の視察のため再び日本を訪れた。そして翌年、三度来日する。
「91年4月に大臣を退任した直後に、タカサキさん(アシスタントのルイス・アントニオ高崎氏)が日本からのオファーの話を持ってきてくれて。日本リーグ2部の住友金属が1部昇格を視野に獲得を熱望してくれていること、日本のサッカーがプロ化することなどを聞かされました」
住友金属のJリーグ参加は91年に承認されていたが、ほかの9クラブは当時日本リーグ1部所属の強豪ばかり。また参入を争っていたライバルチームも天皇杯優勝経験を持つなど、「(住金は)Jリーグで本当に戦えるのか」という疑念の声も飛び交っていた。
そのため、クラブには日本リーグ最終年(同リーグは92年で閉幕し、93年からはJリーグとJFLが設立された)に1部昇格圏の2位以内に入り、周囲からの不安を払拭したいという思いがあった。
クラブのプロジェクトに賛同したジーコだったが、すでに現役を退いて2年近く経っており、決断までに3か月を要したという。
「膝の状態がどうなっているか、実際にプレーできるか、もしプレーできない場合は(選手とは)違った形でプロジェクトに参加できるのか。それを見極めるための時間でした」
そうした真摯な姿勢からも、誠実な人柄やサッカーへの情熱がうかがえる。
「鹿島に来ることになったのは、いろんな偶然が重なった結果です。最初に日本に来たのは81年、フラメンゴの一員としてトヨタカップに出場した時でした。その後、88年か89年に名古屋(前進のトヨタ自動車工業サッカー部)から声がかかりましたが、当時日本リーグ2部に所属していたチームは、そのシーズンに1部昇格を逃し、移籍話は立ち消えになりました」
その後、89年に現役引退を表明し、90年に母国のスポーツ担当大臣に就任。同年12月にトヨタカップ(イタリアのミランとパラグアイのオリンピアが対戦。3-0で前者が勝利)の視察のため再び日本を訪れた。そして翌年、三度来日する。
「91年4月に大臣を退任した直後に、タカサキさん(アシスタントのルイス・アントニオ高崎氏)が日本からのオファーの話を持ってきてくれて。日本リーグ2部の住友金属が1部昇格を視野に獲得を熱望してくれていること、日本のサッカーがプロ化することなどを聞かされました」
住友金属のJリーグ参加は91年に承認されていたが、ほかの9クラブは当時日本リーグ1部所属の強豪ばかり。また参入を争っていたライバルチームも天皇杯優勝経験を持つなど、「(住金は)Jリーグで本当に戦えるのか」という疑念の声も飛び交っていた。
そのため、クラブには日本リーグ最終年(同リーグは92年で閉幕し、93年からはJリーグとJFLが設立された)に1部昇格圏の2位以内に入り、周囲からの不安を払拭したいという思いがあった。
クラブのプロジェクトに賛同したジーコだったが、すでに現役を退いて2年近く経っており、決断までに3か月を要したという。
「膝の状態がどうなっているか、実際にプレーできるか、もしプレーできない場合は(選手とは)違った形でプロジェクトに参加できるのか。それを見極めるための時間でした」
そうした真摯な姿勢からも、誠実な人柄やサッカーへの情熱がうかがえる。
一連の経緯を辿り、日本にやってきたジーコ。一時は現役を退いた身だったが、世界的名手はやはり格が違った。91年9月から92年3月にかけて行なわれた日本リーグ2部で、21ゴールを挙げて得点王に輝くなど、チームの1部昇格を力強く後押したのだ。
「あの年はとにかくキツかったですが、みんなでひとつにまとまって取り組みました。当時はフジタ(現・湘南)が強くてね。ピッタ、エジソンら助っ人に加え、名良橋(晃)や名塚(善寛)など優秀な日本人選手も多数いて、優勝は叶いませんでした。それでも、3節を残して2位以内を確定させて、安堵したのを覚えています」
そして迎えた93年5月16日、本拠地カシマスタジアムでの開幕戦で、鹿島はメキシコ・ワールドカップ得点王のガリー・リネカーを擁する名古屋と対戦。40歳にしてJリーグ初のハットトリックを達成したジーコを牽引車に、5-0の快勝を収めた。ただ、ジーコ本人はJリーグ史に残るその歴史的なゴールについては、さほど思い入れがないようだ。
「1試合で3点取ることは、私にとってそれほど珍しいことではありませんでした。セレソンでもフラメンゴでも経験していましたし、特段インパクトがあったとも思いません。
ブラジルでプレーしていた頃は、ビッグプレーヤーが1試合に何点も取るのは、ある意味で当たり前で、簡単にゴールを奪える時代だったからかもしれませんが、向こうではひとりが3点取ることにさほど重要性はありませんでした。そもそも、ハットトリックという言葉自体、日本に来てから知ったくらいです」
【動画】開幕戦で3得点‼ ジーコの伝説のゴールをチェック‼
とはいえ、チームにとって意味のあるゴールだったのは、本人も認めるところだ。
「むしろ重要だったのは、チームを信じて満員のスタジアムを作ってくれたサポーターたちの前でハットトリックをしたという事実です。鹿島アントラーズの歴史がそこからスタートしたという点で、意義のある3ゴールになったはずです。
当時のアントラーズはオリジナル10のなかで唯一、前年に2部に所属していたチーム。しかも、人口約4万5千人の小さな街のクラブでした。にもかかわらず、Jリーグに参戦したわけですから、いろんな意味で注目されていましたよね。
それに、グランパスにはリネカーがいて、世界的には『リネカー対ジーコ』と謳われていました。日本のプロサッカーの第一歩として、国内のみならず、国外からも注目を浴びた一戦だったんです。
その試合でハットトリックできたのは、私自身以上に、日本サッカー界にとって、何より鹿島アントラーズにとって、意味のあることだったと思います。あの時、私が選手としてあそこまでプレーできたことにも感謝しなくてはいけませんね(笑)」
「あの年はとにかくキツかったですが、みんなでひとつにまとまって取り組みました。当時はフジタ(現・湘南)が強くてね。ピッタ、エジソンら助っ人に加え、名良橋(晃)や名塚(善寛)など優秀な日本人選手も多数いて、優勝は叶いませんでした。それでも、3節を残して2位以内を確定させて、安堵したのを覚えています」
そして迎えた93年5月16日、本拠地カシマスタジアムでの開幕戦で、鹿島はメキシコ・ワールドカップ得点王のガリー・リネカーを擁する名古屋と対戦。40歳にしてJリーグ初のハットトリックを達成したジーコを牽引車に、5-0の快勝を収めた。ただ、ジーコ本人はJリーグ史に残るその歴史的なゴールについては、さほど思い入れがないようだ。
「1試合で3点取ることは、私にとってそれほど珍しいことではありませんでした。セレソンでもフラメンゴでも経験していましたし、特段インパクトがあったとも思いません。
ブラジルでプレーしていた頃は、ビッグプレーヤーが1試合に何点も取るのは、ある意味で当たり前で、簡単にゴールを奪える時代だったからかもしれませんが、向こうではひとりが3点取ることにさほど重要性はありませんでした。そもそも、ハットトリックという言葉自体、日本に来てから知ったくらいです」
【動画】開幕戦で3得点‼ ジーコの伝説のゴールをチェック‼
とはいえ、チームにとって意味のあるゴールだったのは、本人も認めるところだ。
「むしろ重要だったのは、チームを信じて満員のスタジアムを作ってくれたサポーターたちの前でハットトリックをしたという事実です。鹿島アントラーズの歴史がそこからスタートしたという点で、意義のある3ゴールになったはずです。
当時のアントラーズはオリジナル10のなかで唯一、前年に2部に所属していたチーム。しかも、人口約4万5千人の小さな街のクラブでした。にもかかわらず、Jリーグに参戦したわけですから、いろんな意味で注目されていましたよね。
それに、グランパスにはリネカーがいて、世界的には『リネカー対ジーコ』と謳われていました。日本のプロサッカーの第一歩として、国内のみならず、国外からも注目を浴びた一戦だったんです。
その試合でハットトリックできたのは、私自身以上に、日本サッカー界にとって、何より鹿島アントラーズにとって、意味のあることだったと思います。あの時、私が選手としてあそこまでプレーできたことにも感謝しなくてはいけませんね(笑)」