日本人は集団戦術に優れ、そこを頼りにしている面もあるが…。
現在はゾーンディフェンスが全盛である。スペースを網目のように見立て、そこに人とボールを誘い込む。ブロックを作って守りながら、ラインをコントロールしてスペースを狭め、敵の自由を削り取る。
さらに言えば、自分たちがボールを持っているより相手に持たせ、網目に引きずり込み、奪い返して入れ替わるカウンターが有効な時代になっている。勝利への強迫観念に駆られた指導者にとって、効率性こそが崇敬の対象である。
従って、マンマークは効率的ではなく、非合理で時代遅れとされた。リスクマネジメントの視点で考えた場合、「1対1で敗れた場合、失点の危機に陥る」からだ。お互いが補完できるゾーンディフェンスが一般化していったのは必然と言える。
しかしはたして、それは進化と言えるのか?
<1対1で勝つか負けるか>
それがフットボールの本来的な醍醐味であるとすれば――。それを掘り下げることに、正義があるのかもしれない。そしてそれは同時に、日本サッカーに突きつけられた課題とも言えるだろう。
日本人は集団戦術に優れ、そこを頼りにしている面もあるが、守備側は時にどうしても苦しい局面を強いられる瞬間がある。「数的有利を保つ」という考え方は間違っていないが、「数的同数、もしくは劣勢でも守り抜く」気概がなければ、90分間は守り切れないだろう。日本人DFが海外のトップリーグでほとんど成功できていない理由は、その覚悟の差にあるかもしれない。
そもそもアルゼンチン・フットボールは、1対1の覚悟を伝統としている。絶対に目の前の相手に負けない。そのためには手段も選ばず、闘争心と戦いの経験の掛け合わせが技量のベースとなる。セルタのベリッソ監督が、マンマーク&ショートカウンターを現代風にマイナーチェンジできたのは必然と言えるかもしれない。
日本人がそれを模倣できるかは別にして、観察・検証することでひとつのヒントにはすべきだろう。
こみや・よしゆき/1972年、横浜市生まれ。大学在学中にスペインのサラマンカ大に留学。01年にバルセロナへ渡りライターに。選手のみならず、サッカーに全てを注ぐ男の生き様を数多く描写。近著に『おれは最後に笑う』(東邦出版)。
さらに言えば、自分たちがボールを持っているより相手に持たせ、網目に引きずり込み、奪い返して入れ替わるカウンターが有効な時代になっている。勝利への強迫観念に駆られた指導者にとって、効率性こそが崇敬の対象である。
従って、マンマークは効率的ではなく、非合理で時代遅れとされた。リスクマネジメントの視点で考えた場合、「1対1で敗れた場合、失点の危機に陥る」からだ。お互いが補完できるゾーンディフェンスが一般化していったのは必然と言える。
しかしはたして、それは進化と言えるのか?
<1対1で勝つか負けるか>
それがフットボールの本来的な醍醐味であるとすれば――。それを掘り下げることに、正義があるのかもしれない。そしてそれは同時に、日本サッカーに突きつけられた課題とも言えるだろう。
日本人は集団戦術に優れ、そこを頼りにしている面もあるが、守備側は時にどうしても苦しい局面を強いられる瞬間がある。「数的有利を保つ」という考え方は間違っていないが、「数的同数、もしくは劣勢でも守り抜く」気概がなければ、90分間は守り切れないだろう。日本人DFが海外のトップリーグでほとんど成功できていない理由は、その覚悟の差にあるかもしれない。
そもそもアルゼンチン・フットボールは、1対1の覚悟を伝統としている。絶対に目の前の相手に負けない。そのためには手段も選ばず、闘争心と戦いの経験の掛け合わせが技量のベースとなる。セルタのベリッソ監督が、マンマーク&ショートカウンターを現代風にマイナーチェンジできたのは必然と言えるかもしれない。
日本人がそれを模倣できるかは別にして、観察・検証することでひとつのヒントにはすべきだろう。
こみや・よしゆき/1972年、横浜市生まれ。大学在学中にスペインのサラマンカ大に留学。01年にバルセロナへ渡りライターに。選手のみならず、サッカーに全てを注ぐ男の生き様を数多く描写。近著に『おれは最後に笑う』(東邦出版)。