「だんだん練習中にビッグセーブを見せるようになった」(坂本監督)
中学時代までは自分でサッカーを観て、GKのプレーを参考にする程度だった。見様見真似でプレーしていた日々から、新潟明訓ではどんどんサッカーの知識が身につき、同時に技術も感覚も身についていく。
他の選手から見れば初歩の初歩だったかもしれないが、彼にとっては全てが新鮮で、成長を実感できる充実した日々だった。そこに自分の序列なんて一切関係なかった。
「1つのセービングでも飛び方、手の出し方などをこうしたらもっと届くなど教えてもらった。ステップワークやコーチングの部分も、今まで考えたこともなかったので、最初の頃と比べるとどんどん成長している手応えがあるんです」
そして冒頭で触れた通り、高3になっても4番手か5番手の位置づけであることに変わりはなかったが、自身の成長への意欲で溢れかえっていた。
そんな中山に数奇な運命が巡ってきた。今年の始めに第3GKの菊地が負傷離脱すると、3月に第2GKの本間が膝の前十字靭帯損傷という大怪我を負って長期離脱。さらにプリンスリーグ北信越を1試合消化した後に、第1GKの石塚までもが右手を骨折して長期離脱を強いられたのだった。
5人のGKの中で、1番手から3番手までが負傷離脱という異常事態で、スタメンに抜擢されたのが中山だった。5月3日のプリンス北信越のカターレ富山U-18戦が、彼にとってのトップデビュー戦となった。
他の選手から見れば初歩の初歩だったかもしれないが、彼にとっては全てが新鮮で、成長を実感できる充実した日々だった。そこに自分の序列なんて一切関係なかった。
「1つのセービングでも飛び方、手の出し方などをこうしたらもっと届くなど教えてもらった。ステップワークやコーチングの部分も、今まで考えたこともなかったので、最初の頃と比べるとどんどん成長している手応えがあるんです」
そして冒頭で触れた通り、高3になっても4番手か5番手の位置づけであることに変わりはなかったが、自身の成長への意欲で溢れかえっていた。
そんな中山に数奇な運命が巡ってきた。今年の始めに第3GKの菊地が負傷離脱すると、3月に第2GKの本間が膝の前十字靭帯損傷という大怪我を負って長期離脱。さらにプリンスリーグ北信越を1試合消化した後に、第1GKの石塚までもが右手を骨折して長期離脱を強いられたのだった。
5人のGKの中で、1番手から3番手までが負傷離脱という異常事態で、スタメンに抜擢されたのが中山だった。5月3日のプリンス北信越のカターレ富山U-18戦が、彼にとってのトップデビュー戦となった。
これまで序列が低かったGKがプリンス北信越に出る。ともすればチームにとって大きな不安要素となりかねなかったが、これまで努力を怠ってこなかった中山と、その真摯な姿勢を毎日見ていたチームメイトとスタッフたちは一切動じなかった。
「光貴は一般試験で入学してきて、その中でも一番最後に入部した生徒でした。多分、実力的には一番下からスタートだったのですが、朝練は一切さぼらないし、普段の練習でもコーチに直訴してシュートを打ってもらったりと、貪欲に取り組んでいた。だんだん練習中に驚くようなビッグセーブを見せるようになった彼だからこそ、信じてピッチに送り出すことができた」(坂本和也監督)
「試合前日に仲間からも『明日、頼むぞ』、『光貴ならシュートを止めるのが上手いから大丈夫』、『多少ミスしても気にするな』とチームメイトから連絡がきて、本当に頼もしかった。こんなチャンスはないと思ったし、自分の力を出し切ろうと思った。緊張は一切しませんでした」(中山)
自分には頼もしい仲間と信用してくれる坂本監督とコーチ、コツコツと積み上げてきた新潟明訓での充実した日々がある。富山U-18戦は0−1で敗れたが、中山は得意のシュートストップと「仲間から学んだ」コーチングで奮闘し、DF陣も中山を全力でカバーすべく身体を張った。
「光貴は一般試験で入学してきて、その中でも一番最後に入部した生徒でした。多分、実力的には一番下からスタートだったのですが、朝練は一切さぼらないし、普段の練習でもコーチに直訴してシュートを打ってもらったりと、貪欲に取り組んでいた。だんだん練習中に驚くようなビッグセーブを見せるようになった彼だからこそ、信じてピッチに送り出すことができた」(坂本和也監督)
「試合前日に仲間からも『明日、頼むぞ』、『光貴ならシュートを止めるのが上手いから大丈夫』、『多少ミスしても気にするな』とチームメイトから連絡がきて、本当に頼もしかった。こんなチャンスはないと思ったし、自分の力を出し切ろうと思った。緊張は一切しませんでした」(中山)
自分には頼もしい仲間と信用してくれる坂本監督とコーチ、コツコツと積み上げてきた新潟明訓での充実した日々がある。富山U-18戦は0−1で敗れたが、中山は得意のシュートストップと「仲間から学んだ」コーチングで奮闘し、DF陣も中山を全力でカバーすべく身体を張った。