選手時代に後輩のお手本になるのと、監督が選手の手本になるのは意味合いが違う
カズが誕生日を迎える。54歳になる。
カズの誕生日の話はさておき、なかなか難しい世の中だ。
どんなに良いことをやっても、どんなに凄いことをやっても、どんなに努力をしていても……。
人のことを快に、快く思う人もいれば、不快に思う人、快く思わない人もいる。簡単に言えば好きに思ってくれる人もいれば、嫌いに思う人もいるということだ。
それは知っている人にと、知らない人にがあり、僕が知っている人に不快に嫌いに思われるのと、知らない人にそう思われるのでは感じ方もまた少し違う。
そして知っていると言っても、どれだけ知っているかになるが、ほとんどの人が知らないことになり、イメージで人を好きになり、嫌いになる。
そのイメージというのは危険だ。ただ、知ってもらえる人の数は限られているのであろう。
テレビに出る側と見る側では、出る側の人はたくさんの人に好きになってもらえたりするが、嫌いになられたりもする。テレビや雑誌、ラジオや新聞、SNSなどと人の前に露出する人を不快に思う人はたくさんいる。
それは有名である証拠であり、有名税であって仕方がないことでもある。サッカーの世界で言えば、移籍をすれば移籍先でどう思われているか? が気になるものだ。
僕が初めて移籍をしたのは読売クラブから清水エスパルスだった。26歳という年齢でJリーグ発足前であった。
あの頃は若くて先のことなど何も考えられず、目の前に来る困難に立ち向かって行くだけで、誰が快で不快などと考えることなく、全員が自分のことを嫌いでも向かっていくしかない。前へ進むしかない――というそんな年齢だった。
監督になり、いろいろと考えるようになった。
選手は実力でプロ選手になる。実力、力をつける。ライセンス制度ではない。資格を取るのではない。その力を必要としてくれるチームでプレーするのである。
しかし監督は違うライセンスが必要だ。例えばJリーグでプロの監督をやるには、日本のS級ライセンスを取得しなければなれない。
そして、そこでいろんなことを学ぶ。
「グッドスタンダード」
監督は選手の手本となる。
選手の時も後輩たちの手本となることを意識していたが、監督という立場では少し違う。
プレーヤー同士がピッチ上でプレーによって競い合い、プレーヤーとしてグッドスタンダードになるのと、監督と選手、異なった仕事をして、違う立場でグッドスタンダード「手本」になるのでは全く違うのである。
選手時代、憧れの選手の背中を見てああなりたいと思った。憧れられる選手になりたいと……。
そして、ピッチの中ではお互いがボールを蹴り、結果で納得させていく勝負の世界での手本になる。
監督はもうボールは蹴れず、自分で走ることもできず、自分自身のモチベーションをキープするわけでもなく、選手のモチベーションを維持させる自己コントロールではなく、マネジメントによって人をコントロールして、やる気にさせる。
そして試合の結果でコミットし、監督としての手本となる。
それが監督間での手本ではなく、選手からも手本として認められるとはどういうことなのか? そんな難しい仕事が監督業なのである。
それを僕なりに突き詰め、極めてきたつもりではいるが、令和の今の時代はより難しい時が来たな、と強く感じている。
カズの誕生日の話はさておき、なかなか難しい世の中だ。
どんなに良いことをやっても、どんなに凄いことをやっても、どんなに努力をしていても……。
人のことを快に、快く思う人もいれば、不快に思う人、快く思わない人もいる。簡単に言えば好きに思ってくれる人もいれば、嫌いに思う人もいるということだ。
それは知っている人にと、知らない人にがあり、僕が知っている人に不快に嫌いに思われるのと、知らない人にそう思われるのでは感じ方もまた少し違う。
そして知っていると言っても、どれだけ知っているかになるが、ほとんどの人が知らないことになり、イメージで人を好きになり、嫌いになる。
そのイメージというのは危険だ。ただ、知ってもらえる人の数は限られているのであろう。
テレビに出る側と見る側では、出る側の人はたくさんの人に好きになってもらえたりするが、嫌いになられたりもする。テレビや雑誌、ラジオや新聞、SNSなどと人の前に露出する人を不快に思う人はたくさんいる。
それは有名である証拠であり、有名税であって仕方がないことでもある。サッカーの世界で言えば、移籍をすれば移籍先でどう思われているか? が気になるものだ。
僕が初めて移籍をしたのは読売クラブから清水エスパルスだった。26歳という年齢でJリーグ発足前であった。
あの頃は若くて先のことなど何も考えられず、目の前に来る困難に立ち向かって行くだけで、誰が快で不快などと考えることなく、全員が自分のことを嫌いでも向かっていくしかない。前へ進むしかない――というそんな年齢だった。
監督になり、いろいろと考えるようになった。
選手は実力でプロ選手になる。実力、力をつける。ライセンス制度ではない。資格を取るのではない。その力を必要としてくれるチームでプレーするのである。
しかし監督は違うライセンスが必要だ。例えばJリーグでプロの監督をやるには、日本のS級ライセンスを取得しなければなれない。
そして、そこでいろんなことを学ぶ。
「グッドスタンダード」
監督は選手の手本となる。
選手の時も後輩たちの手本となることを意識していたが、監督という立場では少し違う。
プレーヤー同士がピッチ上でプレーによって競い合い、プレーヤーとしてグッドスタンダードになるのと、監督と選手、異なった仕事をして、違う立場でグッドスタンダード「手本」になるのでは全く違うのである。
選手時代、憧れの選手の背中を見てああなりたいと思った。憧れられる選手になりたいと……。
そして、ピッチの中ではお互いがボールを蹴り、結果で納得させていく勝負の世界での手本になる。
監督はもうボールは蹴れず、自分で走ることもできず、自分自身のモチベーションをキープするわけでもなく、選手のモチベーションを維持させる自己コントロールではなく、マネジメントによって人をコントロールして、やる気にさせる。
そして試合の結果でコミットし、監督としての手本となる。
それが監督間での手本ではなく、選手からも手本として認められるとはどういうことなのか? そんな難しい仕事が監督業なのである。
それを僕なりに突き詰め、極めてきたつもりではいるが、令和の今の時代はより難しい時が来たな、と強く感じている。