「もう一度、アスリートとして第一線で勝負したかった」

日本競輪選手養成所 第119回 選手候補生 北井佑季
きたい・ゆうき●1990年1月27日生まれ(30歳) 神奈川県出身、身長169㌢
J通算キャリア=J2:64試合出場5得点、J3:101試合出場9得点 写真:田中研二
松本や富山などで活躍した元Jリーガーが競輪選手へ。その人、北井佑季の話を聞くため、伊豆市修善寺にある、日本競輪選手養成所を訪ねた。行動を分単位で徹底的に管理され、朝早くから遅くまで練習漬けの日々、まだ小さい我が子の声が聴けるのは昼間に電話ができる日曜日の週 一 回だけ……。しかし厳しい養成所の生活も、彼はあまり苦にしていない様子だった。その表情と肉体には、競輪に賭ける「覚悟」が表われていた。
(『サッカーダイジェスト』7月23日号より転載)
――2018シーズン、相模原でプレーされたのを最後に引退されました。決断の時期やきっかけは?
「実は以前から競輪選手になりたいと思っていました。26歳くらい、ちょうど富山にいた頃ですね。いつチャレンジしようかと考えながら、それでも、やっぱりサッカーが好きで、少しでも長くプレーしたい気持ちもあって、あと1年やりたい、やれると思って続けていました」
――2018年の年末にもトライアルを受けていますね。
「実際にオファーもあって、サッカー選手を続けることもできたのですが、次の年には30歳を迎えるタイミングでしたし、競輪選手を目指すなら早い方がいいだろうと」
――小さな頃からサッカー漬けだった北井さんが、なぜ競輪選手に興味を持つようになったのでしょうか?
「僕の幼馴染のお兄さんが競輪選手をしていて、もともと身近にいた存在でした。最初のきっかけですね」
――競輪を初めて見たのは?
「富山でプレーしていた時、家の真横が競輪場だったんです。スピード感に圧倒されて、すごいな! と率直に思いました。同時に僕もここで走りたい、と強く思いました」
――競輪選手を目指すと周囲に話した時、サッカー仲間の反応は?
「引退するのに、まだ身体を使って何かをやろうとするのはすごいね、という声が多かったです。知識や経験を使って指導者になる、という道も、少しは考えましたが、僕は自分の身体で、アスリートとして、第一線で勝負してみたかったんです」
――競輪選手を目指すといっても、そのための知識はないですよ?
「まずは競輪選手である幼馴染のお兄さんに話をしました。そしたら同じ平塚競輪場で、Jリーガーから競輪選手に転身した河野淳吾さん(神奈川/99期/A級1班)が練習していると聞き、紹介してもらいました。相談させていただく中で、河野さんが自分の師匠でもある、高木隆弘さん(神奈川/64期/A級1班)に連絡を取ってくださって、面倒を見てくれることになったんです」
――競輪においては、師匠の存在は大きいようですね。
「はい。師匠に面倒を見ていただけたのは本当に幸運でした。同じような状況から競輪選手を目指し、活躍されている河野さんの存在も大きかったです。師匠の弟子は僕と河野さん、ふたりしかいないんですよ」
――3月の引退から9月の試験までおよそ半年。タイムトライアル型式の技能試験で合格するわけですがそのためのトレーニングはかなりハードだったのでは?
――「実家のある藤沢から平塚競輪場まで通い、朝5時くらいから夜の9時くらいまでひたすら自転車(レーサー)を漕ぎ続けていました。一日も休んでいません。間違いなく人生で一番きつかったですね(笑) 」
――突き動かしたものは?
「やるしかなかったんです。僕には家庭があるし、子どもいるので。最初から試験にチャレンジするのは1度だけと覚悟を決めていました。若いうちなら何度も受験できるかもしれませんが、養成所での訓練時間も含めると2年以上、その間の収入はなくなるわけですからね」
――ご家族からは競輪選手になることは反対されたのですか?
「いえ、妻はやるからには責任もって全力でやって、と後押ししてくれました。ただ、その気持ちに甘えるのは1回だけにしようと。覚悟は師匠にも伝えていました
――師匠が1発で合格させるためのメニューを組んで、北井さんがその思いに応えたと。
「きつかったですが、家族のこともありましたし、自分も本気で競輪選手になりたかったので、迷いとか、心が折れるとかはなかったです」 <次のページへ続く>
(『サッカーダイジェスト』7月23日号より転載)
――2018シーズン、相模原でプレーされたのを最後に引退されました。決断の時期やきっかけは?
「実は以前から競輪選手になりたいと思っていました。26歳くらい、ちょうど富山にいた頃ですね。いつチャレンジしようかと考えながら、それでも、やっぱりサッカーが好きで、少しでも長くプレーしたい気持ちもあって、あと1年やりたい、やれると思って続けていました」
――2018年の年末にもトライアルを受けていますね。
「実際にオファーもあって、サッカー選手を続けることもできたのですが、次の年には30歳を迎えるタイミングでしたし、競輪選手を目指すなら早い方がいいだろうと」
――小さな頃からサッカー漬けだった北井さんが、なぜ競輪選手に興味を持つようになったのでしょうか?
「僕の幼馴染のお兄さんが競輪選手をしていて、もともと身近にいた存在でした。最初のきっかけですね」
――競輪を初めて見たのは?
「富山でプレーしていた時、家の真横が競輪場だったんです。スピード感に圧倒されて、すごいな! と率直に思いました。同時に僕もここで走りたい、と強く思いました」
――競輪選手を目指すと周囲に話した時、サッカー仲間の反応は?
「引退するのに、まだ身体を使って何かをやろうとするのはすごいね、という声が多かったです。知識や経験を使って指導者になる、という道も、少しは考えましたが、僕は自分の身体で、アスリートとして、第一線で勝負してみたかったんです」
――競輪選手を目指すといっても、そのための知識はないですよ?
「まずは競輪選手である幼馴染のお兄さんに話をしました。そしたら同じ平塚競輪場で、Jリーガーから競輪選手に転身した河野淳吾さん(神奈川/99期/A級1班)が練習していると聞き、紹介してもらいました。相談させていただく中で、河野さんが自分の師匠でもある、高木隆弘さん(神奈川/64期/A級1班)に連絡を取ってくださって、面倒を見てくれることになったんです」
――競輪においては、師匠の存在は大きいようですね。
「はい。師匠に面倒を見ていただけたのは本当に幸運でした。同じような状況から競輪選手を目指し、活躍されている河野さんの存在も大きかったです。師匠の弟子は僕と河野さん、ふたりしかいないんですよ」
――3月の引退から9月の試験までおよそ半年。タイムトライアル型式の技能試験で合格するわけですがそのためのトレーニングはかなりハードだったのでは?
――「実家のある藤沢から平塚競輪場まで通い、朝5時くらいから夜の9時くらいまでひたすら自転車(レーサー)を漕ぎ続けていました。一日も休んでいません。間違いなく人生で一番きつかったですね(笑) 」
――突き動かしたものは?
「やるしかなかったんです。僕には家庭があるし、子どもいるので。最初から試験にチャレンジするのは1度だけと覚悟を決めていました。若いうちなら何度も受験できるかもしれませんが、養成所での訓練時間も含めると2年以上、その間の収入はなくなるわけですからね」
――ご家族からは競輪選手になることは反対されたのですか?
「いえ、妻はやるからには責任もって全力でやって、と後押ししてくれました。ただ、その気持ちに甘えるのは1回だけにしようと。覚悟は師匠にも伝えていました
――師匠が1発で合格させるためのメニューを組んで、北井さんがその思いに応えたと。
「きつかったですが、家族のこともありましたし、自分も本気で競輪選手になりたかったので、迷いとか、心が折れるとかはなかったです」 <次のページへ続く>