“遠藤航の3番”の後継者となるも…
“悔しさをバネに”とはよく聞くが、FC琉球のCB・岡﨑亮平はその体現者としてふさわしい。
J2昇格初年度の今年、開幕6試合負けなしと快進撃を見せたこのチームの特長は、やはり攻撃力だ。昨年のJ3制覇時から継承されている“攻め倒す”意識を出し続けるアグレッシブさをJ2の舞台でも発揮しているが、その中で開幕からフル出場を続けている岡﨑は守備で色を出せる選手である。
多くのサッカーファンが持つ“琉球のイメージ”とは一線を画すと言って良いかもしれない。ただ、本人が「このチームで守備ができる選手というのは貴重」と言うように、唯一無二の存在価値を発揮し、加えてこれまであまり求められてこなかった攻撃の部分を、試合を重ねて研磨。上位を駆けるチームにおいて、欠かせないピースとなっている。
湘南ユース出身の岡﨑は中央大に進学した後、持ち味である1対1のディフェンスや185センチの長身を活かした跳ね返しの強さを発揮し、存在感を放った。同い年の車屋紳太郎(川崎)や仲川輝人(横浜)らと並んで大学サッカー界を代表するCBとしてその名を轟かせた。
そして、その活躍が認められ、ユース時代を過ごした湘南への“復帰”を掴み取ったのだが、彼にとって、このクラブへ戻ることに対しては強いこだわりがあった。その裏側には日本代表・遠藤航の存在がある。
湘南ユースで同期だったふたりは、同じDFとして切磋琢磨しあった仲であり、オフ・ザ・ピッチでの繋がりも強かった。遠藤がプロへ、岡﨑が大学へ行った後もオフにはふたりで食事をしたり買い物をしたり、と。
「また一緒にやりたい」
両者の口からこの言葉を幾度か聞いた。
しかし、4年ぶりに同じユニホームに袖を通すこととなった2015年、岡﨑はナビスコカップ3試合の出場に留まり、遠藤と共にピッチに立つことはなかった。そして翌年に遠藤は浦和へ移籍したのだが、同時に遠藤が背負っていた背番号3を岡﨑が引き継ぐことになる。
クラブが懸けた期待の大きさが窺える。だが、負傷が続き出場機会に恵まれず、この番号を背負って集った2018年までの3年間で出場したリーグ戦の数はわずか5つに留まった。
J2昇格初年度の今年、開幕6試合負けなしと快進撃を見せたこのチームの特長は、やはり攻撃力だ。昨年のJ3制覇時から継承されている“攻め倒す”意識を出し続けるアグレッシブさをJ2の舞台でも発揮しているが、その中で開幕からフル出場を続けている岡﨑は守備で色を出せる選手である。
多くのサッカーファンが持つ“琉球のイメージ”とは一線を画すと言って良いかもしれない。ただ、本人が「このチームで守備ができる選手というのは貴重」と言うように、唯一無二の存在価値を発揮し、加えてこれまであまり求められてこなかった攻撃の部分を、試合を重ねて研磨。上位を駆けるチームにおいて、欠かせないピースとなっている。
湘南ユース出身の岡﨑は中央大に進学した後、持ち味である1対1のディフェンスや185センチの長身を活かした跳ね返しの強さを発揮し、存在感を放った。同い年の車屋紳太郎(川崎)や仲川輝人(横浜)らと並んで大学サッカー界を代表するCBとしてその名を轟かせた。
そして、その活躍が認められ、ユース時代を過ごした湘南への“復帰”を掴み取ったのだが、彼にとって、このクラブへ戻ることに対しては強いこだわりがあった。その裏側には日本代表・遠藤航の存在がある。
湘南ユースで同期だったふたりは、同じDFとして切磋琢磨しあった仲であり、オフ・ザ・ピッチでの繋がりも強かった。遠藤がプロへ、岡﨑が大学へ行った後もオフにはふたりで食事をしたり買い物をしたり、と。
「また一緒にやりたい」
両者の口からこの言葉を幾度か聞いた。
しかし、4年ぶりに同じユニホームに袖を通すこととなった2015年、岡﨑はナビスコカップ3試合の出場に留まり、遠藤と共にピッチに立つことはなかった。そして翌年に遠藤は浦和へ移籍したのだが、同時に遠藤が背負っていた背番号3を岡﨑が引き継ぐことになる。
クラブが懸けた期待の大きさが窺える。だが、負傷が続き出場機会に恵まれず、この番号を背負って集った2018年までの3年間で出場したリーグ戦の数はわずか5つに留まった。
「出たかったですね。でも、(湘南の)サポーターがそれを一番思っていたんじゃないかな、と俺は思います。航の後の番号ということで、期待して見てくれた人もいると思うので。申し訳なかったですね。サポーターの人たちには」
盟友の遠藤は日本代表に選ばれ海外移籍を果たし、ワールドカップにも出場した。それを横目に、思うような活躍ができず負傷も続く。そして、とにかく試合に出たいという一心で「いくつかオファーをもらった」なかで琉球への移籍を決断した。
盟友の遠藤は日本代表に選ばれ海外移籍を果たし、ワールドカップにも出場した。それを横目に、思うような活躍ができず負傷も続く。そして、とにかく試合に出たいという一心で「いくつかオファーをもらった」なかで琉球への移籍を決断した。