ダイナミックで縦に速いサッカーを理想に掲げる。
ハビエル・アギーレは直情型の人間だ。その人となりは、1976年にクラブ・アメリカでプロデビューしてからずっと変わらない。
「私はダイレクトに物を言うタイプだ。つねに相手の目を見て話すようにしているのもそのためだ。自分が素直になれば相手も素直になれるし、信頼関係が生まれる。それが自分らしくするということだ。逆に一番ダメなのは、人に嫌われるのを怖がって本当の自分を隠して生きることだ」
アギーレはみずからの信条をそう語る。
その一方で、状況に応じて対処する柔軟性を持ち合わせている。クラブ・アメリカ(メキシコ)、ロサンゼルス・アズテックス(アメリカ)、オサスナ(スペイン)などを転々としながら成功を収めたのが現役時代のアギーレだ。柔軟な対応力の成せる業だろう。
95年に母国メキシコのアトランテで監督人生をスタートさせてからも、率直さと柔軟性を使い分けキャリアを築き上げた。最高の実績は、02年日韓ワールドカップと10年南アフリカ・ワールドカップでメキシコ代表をベスト16に導いたことだろう。持ち前のモチベーターとしての能力を存分に発揮し、現役時代のみずからを彷彿とさせる強烈なスピリットを選手たちに植え付け、チームを戦う集団に変貌させた手腕はまさに真骨頂であった。
戦術に目を向けると、好んで用いるシステムは4-2-3-1だ。最終ラインをプロテクトする守備的MFを中盤の底に2枚並べ、最前線にはターゲットマンとなる9番タイプのCFを置くのがいわば戦術の肝で、ブラジル・ワールドカップで4度目の世界王者に輝いたドイツ代表のような、ダイナミックで縦に速いサッカーを理想に掲げる。
そんなアギーレのサッカー観を決定付けたクラブがあるとすれば、それはオサスナで間違いないだろう。
スペインはバスク地方のビスカヤ県出身の両親を持ち、そのものずばり「エル・バスコ」(スペイン語でバスク人の意)と呼ばれるアギーレは、みずからに流れるその血を誇りに感じ、スペインに一種の憧憬を抱いていた。
願ってもないバスクのクラブ、オサスナからオファーを受けたのは、メキシコ代表のMFとして自国開催の86年ワールドカップを戦った後だった。二つ返事でオサスナ行きを決めたのは言うまでもない。
「私はダイレクトに物を言うタイプだ。つねに相手の目を見て話すようにしているのもそのためだ。自分が素直になれば相手も素直になれるし、信頼関係が生まれる。それが自分らしくするということだ。逆に一番ダメなのは、人に嫌われるのを怖がって本当の自分を隠して生きることだ」
アギーレはみずからの信条をそう語る。
その一方で、状況に応じて対処する柔軟性を持ち合わせている。クラブ・アメリカ(メキシコ)、ロサンゼルス・アズテックス(アメリカ)、オサスナ(スペイン)などを転々としながら成功を収めたのが現役時代のアギーレだ。柔軟な対応力の成せる業だろう。
95年に母国メキシコのアトランテで監督人生をスタートさせてからも、率直さと柔軟性を使い分けキャリアを築き上げた。最高の実績は、02年日韓ワールドカップと10年南アフリカ・ワールドカップでメキシコ代表をベスト16に導いたことだろう。持ち前のモチベーターとしての能力を存分に発揮し、現役時代のみずからを彷彿とさせる強烈なスピリットを選手たちに植え付け、チームを戦う集団に変貌させた手腕はまさに真骨頂であった。
戦術に目を向けると、好んで用いるシステムは4-2-3-1だ。最終ラインをプロテクトする守備的MFを中盤の底に2枚並べ、最前線にはターゲットマンとなる9番タイプのCFを置くのがいわば戦術の肝で、ブラジル・ワールドカップで4度目の世界王者に輝いたドイツ代表のような、ダイナミックで縦に速いサッカーを理想に掲げる。
そんなアギーレのサッカー観を決定付けたクラブがあるとすれば、それはオサスナで間違いないだろう。
スペインはバスク地方のビスカヤ県出身の両親を持ち、そのものずばり「エル・バスコ」(スペイン語でバスク人の意)と呼ばれるアギーレは、みずからに流れるその血を誇りに感じ、スペインに一種の憧憬を抱いていた。
願ってもないバスクのクラブ、オサスナからオファーを受けたのは、メキシコ代表のMFとして自国開催の86年ワールドカップを戦った後だった。二つ返事でオサスナ行きを決めたのは言うまでもない。