娯楽としてのサッカーを体現した「痩せっぽち」
本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
さて今回、サッカーダイジェストWebに登場するのは、190センチを超える長身ながら足元の技術に長け、中盤でゲームをコントロールし、チャンスメイクやフィニッシュでも非凡さを示し続けたブラジルのエレガントな「ドトール(医師)」、ソクラテスだ。
70~80年代のブラジル・サッカー界で一時代を創り上げた、医師免許を有するなどインテリジェンスに富んだ人間性も魅力的だった偉人の軌跡を、ここで振り返ってみよう。
――◇――◇――
1954年2月19日、ブラジル・アマゾンの河口の町、ベレンに生まれたソクラテス。あのギリシャの哲学者の名を与えられた彼の本名は、ソクラテス・ブラジレイロ・サンパイオ・ジ・ソウザ・ヴィエイラ・ジ・オリベイラという長いものだった。
ちなみに彼が11歳の時、後にサンパウロやパリ・サンジェルマンで活躍し、ブラジル代表の10番も背負うことになった弟のライーが生まれている。
サッカーの才能に恵まれながら、勉学にも貪欲だったソクラテスは、小さい地元クラブでプレーを続けていたが、16歳の時にボタフォゴの下部組織に入団。サンパウロ大学で医学を学んでいた1974年にプロデビューを果たした。
早くにその才能はブラジル中に知れ渡ることとなったが、大学を卒業するまでは強豪クラブへの移籍を拒んだというのが、彼らしいエピソードである。実際、サンパウロの名門コリンチャンスの一員となったのは、78年になってからである。
192センチの長身ながら、体重は70キロ台という痩身ゆえに「マグロン(痩せっぽち)」というあだ名をつけられていたソクラテスは、MFとして攻撃陣をコントロールし、チャンスを作り出すのが主の仕事だった。
しかし、得点力も非常に高く、ボタフォゴでは269試合に出場して101得点、コリンチャンスでも297試合出場対して172ゴールと、高い得点率を誇っている。
テクニシャンらしい柔らかいボールタッチで相手をかわし、ミドルシュートは正確かつ強烈。視野の広さ、ヒールを使ったプレーに代表されるような相手の意表を突くような動きが合わさり、相手守備陣にとっては大きな脅威となり、また見る者にとっては娯楽性に富んだ選手だった。
プロとしてのキャリアのなかで全盛期を過ごしたコリンチャンスでは、79、82、84年と3度の州選手権優勝に貢献。自身は83年に南米年間最優秀選手賞にも輝いた。
84年1月には、ゼロックススーパーカップ出場のために来日。日本代表と3度対戦(2勝1敗)し、ソクラテスは1戦目と3戦目でゴールを決めている。
この頃にはブラジル代表での活躍も相まって世界的な名声を手にしていたソクラテスには、当然ながら欧州のビッグクラブから誘いの手が伸びており、彼は当時、隆盛を誇っていたイタリア・セリエAへの参戦を決意する。
前年のジーコ(→ウディネーゼ)に続くブラジル・トップスターの欧州行きは国内のファンを失望させたが、フィオレンティーナへの加入はイタリア国内のみならず、世界的にも大きなニュースとなり、「ブラジル最後の大物」がカルチョの舞台でどのようなプレーを見せるかが多くの注目を集めた。
当時、2つしかなかった外国人枠を、アルゼンチン代表キャプテンを務めたダニエル・パサレラとともに占めたことも話題を集めたが(ソクラテスもブラジル代表のキャプテンを務めた)、肝心のプレーでは精彩を欠き、公式戦29試合出場9得点という成績を残し、ソクラテスの欧州挑戦はわずか1年で終了を迎えたのである。
85年に帰国し、今度はリオデジャネイロの強豪フラメンゴに加入。同じくイタリア帰りのジーコと共闘し、86年には州選手権を制覇。ここで3シーズンを過ごしてから88年にサントス、そして89年にキャリアの原点であるボタフォゴに戻り、同年に現役引退を決意した。
さて今回、サッカーダイジェストWebに登場するのは、190センチを超える長身ながら足元の技術に長け、中盤でゲームをコントロールし、チャンスメイクやフィニッシュでも非凡さを示し続けたブラジルのエレガントな「ドトール(医師)」、ソクラテスだ。
70~80年代のブラジル・サッカー界で一時代を創り上げた、医師免許を有するなどインテリジェンスに富んだ人間性も魅力的だった偉人の軌跡を、ここで振り返ってみよう。
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1954年2月19日、ブラジル・アマゾンの河口の町、ベレンに生まれたソクラテス。あのギリシャの哲学者の名を与えられた彼の本名は、ソクラテス・ブラジレイロ・サンパイオ・ジ・ソウザ・ヴィエイラ・ジ・オリベイラという長いものだった。
ちなみに彼が11歳の時、後にサンパウロやパリ・サンジェルマンで活躍し、ブラジル代表の10番も背負うことになった弟のライーが生まれている。
サッカーの才能に恵まれながら、勉学にも貪欲だったソクラテスは、小さい地元クラブでプレーを続けていたが、16歳の時にボタフォゴの下部組織に入団。サンパウロ大学で医学を学んでいた1974年にプロデビューを果たした。
早くにその才能はブラジル中に知れ渡ることとなったが、大学を卒業するまでは強豪クラブへの移籍を拒んだというのが、彼らしいエピソードである。実際、サンパウロの名門コリンチャンスの一員となったのは、78年になってからである。
192センチの長身ながら、体重は70キロ台という痩身ゆえに「マグロン(痩せっぽち)」というあだ名をつけられていたソクラテスは、MFとして攻撃陣をコントロールし、チャンスを作り出すのが主の仕事だった。
しかし、得点力も非常に高く、ボタフォゴでは269試合に出場して101得点、コリンチャンスでも297試合出場対して172ゴールと、高い得点率を誇っている。
テクニシャンらしい柔らかいボールタッチで相手をかわし、ミドルシュートは正確かつ強烈。視野の広さ、ヒールを使ったプレーに代表されるような相手の意表を突くような動きが合わさり、相手守備陣にとっては大きな脅威となり、また見る者にとっては娯楽性に富んだ選手だった。
プロとしてのキャリアのなかで全盛期を過ごしたコリンチャンスでは、79、82、84年と3度の州選手権優勝に貢献。自身は83年に南米年間最優秀選手賞にも輝いた。
84年1月には、ゼロックススーパーカップ出場のために来日。日本代表と3度対戦(2勝1敗)し、ソクラテスは1戦目と3戦目でゴールを決めている。
この頃にはブラジル代表での活躍も相まって世界的な名声を手にしていたソクラテスには、当然ながら欧州のビッグクラブから誘いの手が伸びており、彼は当時、隆盛を誇っていたイタリア・セリエAへの参戦を決意する。
前年のジーコ(→ウディネーゼ)に続くブラジル・トップスターの欧州行きは国内のファンを失望させたが、フィオレンティーナへの加入はイタリア国内のみならず、世界的にも大きなニュースとなり、「ブラジル最後の大物」がカルチョの舞台でどのようなプレーを見せるかが多くの注目を集めた。
当時、2つしかなかった外国人枠を、アルゼンチン代表キャプテンを務めたダニエル・パサレラとともに占めたことも話題を集めたが(ソクラテスもブラジル代表のキャプテンを務めた)、肝心のプレーでは精彩を欠き、公式戦29試合出場9得点という成績を残し、ソクラテスの欧州挑戦はわずか1年で終了を迎えたのである。
85年に帰国し、今度はリオデジャネイロの強豪フラメンゴに加入。同じくイタリア帰りのジーコと共闘し、86年には州選手権を制覇。ここで3シーズンを過ごしてから88年にサントス、そして89年にキャリアの原点であるボタフォゴに戻り、同年に現役引退を決意した。