栄光に彩られたドリブルスターの輝かしいキャリア

「禁断の移籍」として大騒動を巻き起こしたマドリー入りだったが、ここで彼のキャリアはさらに輝かしいものとなり、マドリーも彼によって「銀河系軍団」としての黄金時代創成の足掛かりを掴んだ。写真は02年CL決勝のレバークーゼン戦。 (C) Getty Images
本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
さて今回、サッカーダイジェストWebに登場するのは、高度なテクニックで右サイドを突破し、決定的なラストパスを送る他、自ら貴重なゴールも生み出した、ポルトガル・サッカー史上に残る天才、ルイス・フィーゴだ。
ビッグクラブを渡り歩き、チームに多くの栄光をもたらすとともに、個人でも輝かしい勲章を勝ち取った偉人の軌跡を、ここで振り返ってみよう。
――◇――◇――
ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴがポルトガルのアルマダで生を受けたのは1972年11月4日。労働階級の家庭に育った彼は、幼少期からストリートサッカーでその技を磨き、早くもその才能を垣間見せたという。
スポルティングのアカデミーに入団したのが11歳の時で、このクラブで順調に成長を遂げていったドリブルスターは90年4月1日、マリティモ戦でトップチームでのデビューを飾る。
デビュー3シーズン目で主力に定着すると、91年12月7日のトーレエンセ戦で初ゴールを記録。以降は95年までの在籍期間中、毎シーズン30試合以上に出場し、リーグでは計16ゴールを記録したが、それ以上にサイドからチャンスメイクで多くの得点をチームにもたらした。
最終シーズンに、自身初のチームタイトルである国内カップ優勝に貢献したフィーゴには、以前から欧州のビッグクラブが熱視線を注いでいたが、なかでも熱心だったのが、当時は世界一のリーグだったイタリア・セリエAの各クラブだ。
ポルトガル黄金世代の仲間、パウロ・ソウザ(→ユベントス)、フェルナンド・コウト(→パルマ)、ルイ・コスタ(→フィオレンティーナ)がカルチョに挑戦するなかで、フィーゴにはユベントス、パルマがアプローチ。彼も同胞同様にイタリア上陸が間近に迫っていた。
ところが、ここでフィーゴは二重契約いうミスを犯してしまい、イタリア・サッカー連盟から2年間はイタリアでプレーできないという通告を受ける。この“隙”を衝いたのがバルセロナであり、フィーゴはスペインの名門で新たな挑戦をスタートさせることとなった。
90年代前半に猛威を振るった「ドリームチーム」が解体され、新たな時代を迎えようとしていたバルサでフィーゴはすぐに主力となり、1年目には35試合に出場。“怪物”ロナウドを迎え入れた翌シーズンには初の欧州タイトル、カップウィナーズ・カップを手にする。
そして97-98シーズンには、新加入リバウドらとともに、バルサに4年ぶりのリーグタイトルをもたらし、コパ・デル・レイとの二冠も達成。そのスタイルがサポーターの不評を買ったルイス・ファン・ハール監督とは対照的に、フィーゴは自身の評価を大いに高めた。
クラブ創設100周年の翌98-99シーズンにも続けてリーグを制したバルサ。オランダ色の濃くなるチームでも極上のプレーを見せたフィーゴは、翌シーズンにはキャリアハイの9得点を挙げて存在感を示したが、この時、宿敵レアル・マドリーの新たな会長、フロレンティーノ・ペレスと接触していた。
そして2000年夏、衝撃のマドリー移籍を発表。そのプレーだけでなく、人格者としてもバルセロニスタから愛されていたフィーゴは、この瞬間から彼らの憎悪を一身に浴びる「裏切り者」となり、以降は「金の亡者」と罵られ続けることとなった。
マドリーの一員として初めてカンプ・ノウのピッチに立ったクラシコでは、豚の頭など多くの物を罵声とともに投げ付けられ、試合が中断したほど。これにフィーゴは心を痛めたが、一方でマドリーでは「銀河系軍団」の先鞭を着けた存在として、輝かしいクラブ史にその名を残した。
同年にはバロンドールを受賞し、世界で最も価値の高い選手となったフィーゴ。マドリーでも、その技巧的なドリブルで右サイドの支配者となったが、ここではさらにプレーエリアを広げ、中央でのチャンスメーカーとしての能力もアップさせ、これまで以上に勝敗を左右する重要な存在となった。
年々、スターを迎えて入れていくマドリーで、加入1シーズン目でリーガ制覇、02年にはチャンピオンズ・リーグ(CL)を制し、同年末に横浜で世界一に昇り詰めた。計7つのタイトルを獲得した05年までのマドリーでの5シーズンは、フィーゴのキャリアにおいて絶頂の時期となった。
さて今回、サッカーダイジェストWebに登場するのは、高度なテクニックで右サイドを突破し、決定的なラストパスを送る他、自ら貴重なゴールも生み出した、ポルトガル・サッカー史上に残る天才、ルイス・フィーゴだ。
ビッグクラブを渡り歩き、チームに多くの栄光をもたらすとともに、個人でも輝かしい勲章を勝ち取った偉人の軌跡を、ここで振り返ってみよう。
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ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴがポルトガルのアルマダで生を受けたのは1972年11月4日。労働階級の家庭に育った彼は、幼少期からストリートサッカーでその技を磨き、早くもその才能を垣間見せたという。
スポルティングのアカデミーに入団したのが11歳の時で、このクラブで順調に成長を遂げていったドリブルスターは90年4月1日、マリティモ戦でトップチームでのデビューを飾る。
デビュー3シーズン目で主力に定着すると、91年12月7日のトーレエンセ戦で初ゴールを記録。以降は95年までの在籍期間中、毎シーズン30試合以上に出場し、リーグでは計16ゴールを記録したが、それ以上にサイドからチャンスメイクで多くの得点をチームにもたらした。
最終シーズンに、自身初のチームタイトルである国内カップ優勝に貢献したフィーゴには、以前から欧州のビッグクラブが熱視線を注いでいたが、なかでも熱心だったのが、当時は世界一のリーグだったイタリア・セリエAの各クラブだ。
ポルトガル黄金世代の仲間、パウロ・ソウザ(→ユベントス)、フェルナンド・コウト(→パルマ)、ルイ・コスタ(→フィオレンティーナ)がカルチョに挑戦するなかで、フィーゴにはユベントス、パルマがアプローチ。彼も同胞同様にイタリア上陸が間近に迫っていた。
ところが、ここでフィーゴは二重契約いうミスを犯してしまい、イタリア・サッカー連盟から2年間はイタリアでプレーできないという通告を受ける。この“隙”を衝いたのがバルセロナであり、フィーゴはスペインの名門で新たな挑戦をスタートさせることとなった。
90年代前半に猛威を振るった「ドリームチーム」が解体され、新たな時代を迎えようとしていたバルサでフィーゴはすぐに主力となり、1年目には35試合に出場。“怪物”ロナウドを迎え入れた翌シーズンには初の欧州タイトル、カップウィナーズ・カップを手にする。
そして97-98シーズンには、新加入リバウドらとともに、バルサに4年ぶりのリーグタイトルをもたらし、コパ・デル・レイとの二冠も達成。そのスタイルがサポーターの不評を買ったルイス・ファン・ハール監督とは対照的に、フィーゴは自身の評価を大いに高めた。
クラブ創設100周年の翌98-99シーズンにも続けてリーグを制したバルサ。オランダ色の濃くなるチームでも極上のプレーを見せたフィーゴは、翌シーズンにはキャリアハイの9得点を挙げて存在感を示したが、この時、宿敵レアル・マドリーの新たな会長、フロレンティーノ・ペレスと接触していた。
そして2000年夏、衝撃のマドリー移籍を発表。そのプレーだけでなく、人格者としてもバルセロニスタから愛されていたフィーゴは、この瞬間から彼らの憎悪を一身に浴びる「裏切り者」となり、以降は「金の亡者」と罵られ続けることとなった。
マドリーの一員として初めてカンプ・ノウのピッチに立ったクラシコでは、豚の頭など多くの物を罵声とともに投げ付けられ、試合が中断したほど。これにフィーゴは心を痛めたが、一方でマドリーでは「銀河系軍団」の先鞭を着けた存在として、輝かしいクラブ史にその名を残した。
同年にはバロンドールを受賞し、世界で最も価値の高い選手となったフィーゴ。マドリーでも、その技巧的なドリブルで右サイドの支配者となったが、ここではさらにプレーエリアを広げ、中央でのチャンスメーカーとしての能力もアップさせ、これまで以上に勝敗を左右する重要な存在となった。
年々、スターを迎えて入れていくマドリーで、加入1シーズン目でリーガ制覇、02年にはチャンピオンズ・リーグ(CL)を制し、同年末に横浜で世界一に昇り詰めた。計7つのタイトルを獲得した05年までのマドリーでの5シーズンは、フィーゴのキャリアにおいて絶頂の時期となった。