「宮崎での生活は、とても大きかった」
昨季、J1初挑戦ながら黒田剛監督のもとで3位と躍進したFC町田ゼルビア。2025シーズンはタイトル獲得を目標に掲げ、準備を進めている。
悲願成就のため、オフシーズンには積極的な補強を実施。その新加入選手の中のひとりが、昨シーズンまで3年間にわたり北海道コンサドーレ札幌の最終ラインを統率してきたDF岡村大八だ。
バリバリのJ1プレーヤーである岡村だが、決して“エリート”ではない。前橋育英高時代は、出場機会に恵まれずベンチ外も経験。立正大でポジションを確保したのは、上級生になってからだった。
その後、J3の群馬でプロキャリアをスタートするも、1年目は活躍できず、その夏に当時はJFLだったテゲバジャーロ宮崎に移籍。21年に加入した札幌でも1年目は途中出場が主で、レギュラーを獲得したのは22年からだった。
そんな28歳に、今回インタビューを実施。町田への移籍の経緯や挫折との向き合い方、今後の目標などを訊いた。
――◆――◆――
――町田への移籍を決めた理由を教えてください。
町田には日本代表選手が多くいますし、ワールドカップに出て活躍した選手もいます。日本だけではなく、いろいろな国の代表選手もいて、練習から高いレベルでプレーできるのは魅力的でした。また、去年の躍進も、非常に大きかったです。
【動画】ゼルビア期待の新DFコンビ! 岡村大八&菊池流帆のプレー集!
悲願成就のため、オフシーズンには積極的な補強を実施。その新加入選手の中のひとりが、昨シーズンまで3年間にわたり北海道コンサドーレ札幌の最終ラインを統率してきたDF岡村大八だ。
バリバリのJ1プレーヤーである岡村だが、決して“エリート”ではない。前橋育英高時代は、出場機会に恵まれずベンチ外も経験。立正大でポジションを確保したのは、上級生になってからだった。
その後、J3の群馬でプロキャリアをスタートするも、1年目は活躍できず、その夏に当時はJFLだったテゲバジャーロ宮崎に移籍。21年に加入した札幌でも1年目は途中出場が主で、レギュラーを獲得したのは22年からだった。
そんな28歳に、今回インタビューを実施。町田への移籍の経緯や挫折との向き合い方、今後の目標などを訊いた。
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――町田への移籍を決めた理由を教えてください。
町田には日本代表選手が多くいますし、ワールドカップに出て活躍した選手もいます。日本だけではなく、いろいろな国の代表選手もいて、練習から高いレベルでプレーできるのは魅力的でした。また、去年の躍進も、非常に大きかったです。
【動画】ゼルビア期待の新DFコンビ! 岡村大八&菊池流帆のプレー集!
――プロ入り前について教えてください。前橋育英高の同期には、後にJ1で活躍する渡邊凌磨選手や小泉佳穂選手らがいたなか、トップチームでスタメンになれなかったそうですね。
(チームが準優勝した)全国サッカー選手権では、センターバックの選手に体調不良者が出て、繰り上がりでのベンチ入りが一度だけありましたけど、基本的にはベンチ外でした。
――その後、立正大に入学したものの、3年生の途中までは補欠だったそうですね。
1年生の頃からトップチームに入れましたけど、試合には出られませんでした。2年生ではBチーム落ちもした。自分がまだまだ未熟で子どもだったから、現場を指揮していたヘッドコーチとの衝突もありました。試合に出始めたのは、3年生の夏頃。指導者が求めるプレーを考えられるようになり、人として成長できました。
――群馬に加入直後、出場機会に恵まれず、その夏に当時はJFLだった宮崎にレンタル移籍されました。
群馬は当時、J3でしたけど、チームメイトにはJ1の経験者もいました。勝手にその選手たちと同じようなプレーをしなきゃいけないと思い、なかなか自分のプレーができませんでした。
そんな時に、大学の頃から興味を持ってもらっていた宮崎から誘いが来ました。当時の宮崎ではプロ契約の選手が少なく、アマチュア契約の選手は、僕と同じ練習をした後にアルバイトをしていました。ハングリー精神を持って頑張っている姿を見て、自分の空き時間の使い方に疑問を感じ、まず読書から始めました。個人事業主になったので、税金や保険といったお金のところなど、まず人として一人前になろうと思えました。
プレー面では、自分の特長を活かして自信を持ってプレーすることが、どれだけ大事かを痛感しました。JFLでも、Jリーグでの経験がある選手もいたなかで「自分はこれくらいできる」という気持ちでプレーできた。宮崎での生活は、とても大きかったです。
【画像】際立つデザインがずらり! Jクラブの2025年シーズン新ユニホームを特集!
(チームが準優勝した)全国サッカー選手権では、センターバックの選手に体調不良者が出て、繰り上がりでのベンチ入りが一度だけありましたけど、基本的にはベンチ外でした。
――その後、立正大に入学したものの、3年生の途中までは補欠だったそうですね。
1年生の頃からトップチームに入れましたけど、試合には出られませんでした。2年生ではBチーム落ちもした。自分がまだまだ未熟で子どもだったから、現場を指揮していたヘッドコーチとの衝突もありました。試合に出始めたのは、3年生の夏頃。指導者が求めるプレーを考えられるようになり、人として成長できました。
――群馬に加入直後、出場機会に恵まれず、その夏に当時はJFLだった宮崎にレンタル移籍されました。
群馬は当時、J3でしたけど、チームメイトにはJ1の経験者もいました。勝手にその選手たちと同じようなプレーをしなきゃいけないと思い、なかなか自分のプレーができませんでした。
そんな時に、大学の頃から興味を持ってもらっていた宮崎から誘いが来ました。当時の宮崎ではプロ契約の選手が少なく、アマチュア契約の選手は、僕と同じ練習をした後にアルバイトをしていました。ハングリー精神を持って頑張っている姿を見て、自分の空き時間の使い方に疑問を感じ、まず読書から始めました。個人事業主になったので、税金や保険といったお金のところなど、まず人として一人前になろうと思えました。
プレー面では、自分の特長を活かして自信を持ってプレーすることが、どれだけ大事かを痛感しました。JFLでも、Jリーグでの経験がある選手もいたなかで「自分はこれくらいできる」という気持ちでプレーできた。宮崎での生活は、とても大きかったです。
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