悲劇を乗り越え、一からチームを作り上げて頂点へと到達した。

指揮官としてはユナイテッド一筋。1159試合で指揮を執り、581勝を挙げた。 (C) Getty Images

一から作り上げたチームで一歩ずつ階段を上がり、欧州の頂点に到達した。ちなみにこの後、世界一クラブの座を争うインターコンチネンタル・カップでは、エストゥディアンテスに2戦合計スコア1-2で敗れている。相手チームには、後にアルゼンチン代表を率いるカルロス・ビラルドやカルロス・パチャメ、そして後にユナイテッドでプレーするファン・セバスティアン・ヴェロンの父、ファン・ラモンらがいた。 (C) Getty Images
◇マット・バスビー:1909年5月26日生まれ スコットランド・ノースラナークシャー出身
歴史ある名門マンチェスター・ユナイテッドの伝説的な指揮官。初めて「赤い悪魔」――こう名付け親もバスビーであるという――を欧州の頂点に導いたという功績もさることながら、クラブの基盤を築き、最大の危機を乗り越えるのに尽力した“恩人”でもある。
戦前、選手としてマンチェスター・シティ、リバプール、ハイバーニアン、そしてスコットランド代表でプレーし、終戦翌年に11代目となるユナイテッドの監督に就任した。
最初から指揮官としての資質を備えていたのは、1年目でリバプールに次ぐ2位の成績を挙げたことからも明らかだが、彼には選手の才能を見抜く目があり、ボビー・チャールトン、ダンカン・エドワーズといった天才を見出していった。
そしてもうひとつ、ただ目の前の試合をモノにすることだけを考えず、長期的な視野でチームの強化を目指したことは、ユナイテッドという強力なクラブの骨子を作り上げることにも繋がった。
しかし突然、悲劇は訪れた。1958年2月6日、ユーゴスラビアからの帰国の際に立ち寄ったドイツ・ミュンヘンで搭乗機が離陸に失敗、建物に激突して大破炎上。バスビー自身も生死の境をさまよったこの事故で、ユナイテッドはエドワーズら8人の選手とスタッフ3人を失った。
その後、家族の支えで現場に復帰したバスビーはクラブの立て直しに着手。事故を生き抜いたチャールトン、60年代に入って頭角を現わしたジョージ・ベスト、デニス・ローといったタレントを擁して、64-65、66-67シーズンのリーグを制した。
そして67-68シーズン、国内リーグでは同じ街のライバル、シティの優勝を許すも、ウェンブリーでのチャンピオンズ・カップ(現リーグ)では、延長までもつれ込んだ伝説の大激戦の末にベンフィカを破り、ついに大陸王者へと昇り詰めた。
一からチームを作り、「ミュンヘンの悲劇」で一度は全てを失ったものの、再び立ち上がり、自ら見出した「バスビーベイブス」によって大偉業を成し遂げたバスビーには、「ナイト」の称号が英国政府から与えられた。
23シーズンの在任期間でリーグ5回、FAカップ2回、チャリティーシールド5回、そしてチャンピオンズ・カップ1回の優勝を果たし、70年から1シーズンだけ監督復帰を果たしたユナイテッドのレジェンド。その後は立場を変えてクラブに残り、自ら築き上げたクラブの伝統を守り続けることに尽力した。
94年1月20日、バスビーは84歳でこの世を去った。訃報を受けて多くのファンがオールド・トラフォードに駆け付け、スタジアムの周辺は彼らが捧げた花などで埋め尽くされた。ちなみに現在、正面玄関にはバスビーの銅像が立ち、今なおユナイテッドを見守り続けている。
さて、60年代にユナイテッドに最初の繁栄をもたらしたバスビーだが、その後はライバルたちの後塵を拝す時期が長く続いた。しかし、その人生の終焉が近づいた頃、第2の黄金時代をクラブは迎えつつあった。
その鍵を握ったのが、86年から指揮を執っていたアレックス・ファーガソンだ。2013年まで26年という前例のない超長期政権を築いた彼は、バスビー同様に長期的な視野で強力なチームを築き上げ、タイトル数ではバスビーをはるかに凌ぐ実績を上げた。
ちなみにユナイテッドの歴史において、リーグ優勝にチームを導いた監督は、バスビー、ファーガソンを除けば、20世紀に入って間もなく就任したジェームス・アーネスト・マングノール(2回)だけである。
デイビッド・モイーズ、そして他クラブでは実績十分のルイス・ファン・ハールも、ユナイテッドの名将の歴史に名を残すことができなかった。では、来シーズンより到来するとされるジョゼ・モウリーニョはどうだろうか。
歴史ある名門マンチェスター・ユナイテッドの伝説的な指揮官。初めて「赤い悪魔」――こう名付け親もバスビーであるという――を欧州の頂点に導いたという功績もさることながら、クラブの基盤を築き、最大の危機を乗り越えるのに尽力した“恩人”でもある。
戦前、選手としてマンチェスター・シティ、リバプール、ハイバーニアン、そしてスコットランド代表でプレーし、終戦翌年に11代目となるユナイテッドの監督に就任した。
最初から指揮官としての資質を備えていたのは、1年目でリバプールに次ぐ2位の成績を挙げたことからも明らかだが、彼には選手の才能を見抜く目があり、ボビー・チャールトン、ダンカン・エドワーズといった天才を見出していった。
そしてもうひとつ、ただ目の前の試合をモノにすることだけを考えず、長期的な視野でチームの強化を目指したことは、ユナイテッドという強力なクラブの骨子を作り上げることにも繋がった。
しかし突然、悲劇は訪れた。1958年2月6日、ユーゴスラビアからの帰国の際に立ち寄ったドイツ・ミュンヘンで搭乗機が離陸に失敗、建物に激突して大破炎上。バスビー自身も生死の境をさまよったこの事故で、ユナイテッドはエドワーズら8人の選手とスタッフ3人を失った。
その後、家族の支えで現場に復帰したバスビーはクラブの立て直しに着手。事故を生き抜いたチャールトン、60年代に入って頭角を現わしたジョージ・ベスト、デニス・ローといったタレントを擁して、64-65、66-67シーズンのリーグを制した。
そして67-68シーズン、国内リーグでは同じ街のライバル、シティの優勝を許すも、ウェンブリーでのチャンピオンズ・カップ(現リーグ)では、延長までもつれ込んだ伝説の大激戦の末にベンフィカを破り、ついに大陸王者へと昇り詰めた。
一からチームを作り、「ミュンヘンの悲劇」で一度は全てを失ったものの、再び立ち上がり、自ら見出した「バスビーベイブス」によって大偉業を成し遂げたバスビーには、「ナイト」の称号が英国政府から与えられた。
23シーズンの在任期間でリーグ5回、FAカップ2回、チャリティーシールド5回、そしてチャンピオンズ・カップ1回の優勝を果たし、70年から1シーズンだけ監督復帰を果たしたユナイテッドのレジェンド。その後は立場を変えてクラブに残り、自ら築き上げたクラブの伝統を守り続けることに尽力した。
94年1月20日、バスビーは84歳でこの世を去った。訃報を受けて多くのファンがオールド・トラフォードに駆け付け、スタジアムの周辺は彼らが捧げた花などで埋め尽くされた。ちなみに現在、正面玄関にはバスビーの銅像が立ち、今なおユナイテッドを見守り続けている。
さて、60年代にユナイテッドに最初の繁栄をもたらしたバスビーだが、その後はライバルたちの後塵を拝す時期が長く続いた。しかし、その人生の終焉が近づいた頃、第2の黄金時代をクラブは迎えつつあった。
その鍵を握ったのが、86年から指揮を執っていたアレックス・ファーガソンだ。2013年まで26年という前例のない超長期政権を築いた彼は、バスビー同様に長期的な視野で強力なチームを築き上げ、タイトル数ではバスビーをはるかに凌ぐ実績を上げた。
ちなみにユナイテッドの歴史において、リーグ優勝にチームを導いた監督は、バスビー、ファーガソンを除けば、20世紀に入って間もなく就任したジェームス・アーネスト・マングノール(2回)だけである。
デイビッド・モイーズ、そして他クラブでは実績十分のルイス・ファン・ハールも、ユナイテッドの名将の歴史に名を残すことができなかった。では、来シーズンより到来するとされるジョゼ・モウリーニョはどうだろうか。

バスビー同様、ユナイテッドを世界的なクラブに引き上げた功労者ファーガソン。2人合わせて、勝ち取ったリーグタイトルは18、FAカップは7、チャンピオンズ・リーグは3である。ともにスコットランド人であり、短期ながら代表チームを率いた経験もある。写真の右隣は、「バスビーベイブス」のひとりであるチャールトン。 (C) Getty Images

バルセロナ時代にアシスタントとしてファン・ハール(右)から多くのことを学んだモウリーニョ(左)が、“恩師”の後を受けて名門復活に着手する。その手腕には、ファーガソンはもちろん、そして天国のバスビーも注目しているかも。 (C) Getty Images