W杯を制した3人目のイタリア人指揮官は数々の記録を達成。

栄光の06年W杯。チーム作り、采配もさることながら、選手の心理面をケアし、チームの調子のピークを本大会に合わせたマネジメント力は見事だった。 (C) Getty Images

名将はアジアでも輝きを放った。リッピの存在が、その後の多くの名将、名選手の中国行きに大きな影響を与えたことは間違いない。 (C) Getty Images
◇マルチェロ・リッピ:1948年4月12日生まれ イタリア・ヴィアレッジョ出身
4年前のEUROで決勝戦進出を果たしたイタリアは、今夏、68年大会以来の欧州制覇を狙っているが、その道のりは非常に険しい。ワールドカップでは過去2大会でグループリーグ敗退を喫しており、戦力的にも以前のようなビッグネームは乏しい状況にある。
クラブレベルでも、ユベントスを除けば、欧州カップでの競争力を持たないチームが多く、明らかにカルチョの世界における序列は下がってきており、この状況を改善する明確な術も見出せていない。
少し前まで、財政面ではスペイン、イングランド勢に劣るものの、ピッチ上では同等以上の力を誇ってきたイタリアのクラブ。今では国内でもタイトルとは無縁となっているミランは、2006-07シーズンにチャンピオンズ・リーグ(CL)優勝を果たしている。
そして10年前、代表レベルでもイタリアは世界を制した。ドイツの地で並み居る強国を次々に倒した彼らは、82年スペイン大会以来、4度目のW杯優勝を遂げたのだ。
現時点でカルチョ最後の栄光。それを母国にもたらしたのが、監督のマルチェロ・リッピである。
69年から82年まで、サンプドリア、ピストイエーゼなどで現役生活を送った後、指導者に転身。82年のサンプドリア・ユースでのコーチングを皮切りに、各クラブの監督を歴任した彼にとって転機となったのは、93-94シーズンにナポリを率いたことだった。
財政難に苦しむこのクラブを6位に引き上げた(前シーズンは11位)手腕を評価され、翌シーズンにユベントスに招聘されたリッピは、ここから名将としてのキャリアを歩むこととなる。
就任1年目でリーグ優勝、96年には欧州&世界制覇を果たし、国内では96-97シーズンからリーグ連覇、さらにCLでも97-98シーズンまで3シーズン連続でファイナリストとなるなど、ユベントスを欧州のトップクラブに変貌させた。
全選手に攻守での高い貢献度を求め、攻撃でのみ違いを見せられるような特別な存在を必要としなかったリッピは、ロベルト・バッジョら稀代のファンタジスタとは反目し合いながらも、結果を残したことで評価を高め、早くからイタリア代表監督就任を望まれるようなった。
99年からインテルを率い、01年にユベントスへ復帰。ここで2度スクデットを獲得した後、一時は休養すると宣言していた彼は、これを撤回し、ついにアズーリの指揮官に就任する。
EURO2004で無残なグループリーグ敗退を喫したチームの改革に乗り出し、守備の基盤を整えた上で攻撃を強化。イタリアは徐々に力を上げていったが、ドイツW杯前には国内リーグでの八百長スキャンダルに揺れ動き、リッピ自身も巻き込まれ、一時は解任も噂された。
そのような状況で、チームは動揺するどころか、逆に一丸となった。決勝トーナメントでは、準々決勝のウクライナ戦以外は厳しい試合が続いたものの、大会一の強力な守備と優れたタレントによる効率の良い攻撃でこれを乗り越え、ベルリンで栄光の夜を迎えた。
34年イタリア大会、38年フランス大会でのヴィットリオ・ポッツォ、82年大会でのエンツォ・ベアルツォットに次いで、イタリア人では3人目となる世界一の監督となったリッピ。クラブ、代表の両方で世界を制した初の指揮官という名誉も手に入れた。
ドイツ大会後に勇退し、2年後に再びアズーリを率いるも、10年南アフリカ大会ではグループリーグ敗退を喫して辞任したリッピは、12年に中国の広州恒大への移籍を発表。年俸10億円という破格の条件と併せて、世界を驚かせた。
ここでの3シーズンで残した成績は、3年連続リーグ優勝、そして13年にはAFCチャンピオンズリーグ優勝という文句のつけようのないもの。13年はアジア王者としてクラブワールドカップに出場し、バイエルン、ラジャ・カサブランカ、アトレチコ・ミネイロに次ぐ世界4位に輝いた。
現在はフリーのリッピには、幾つかオファーがあるようだが、果たして彼はいかなるキャリアを選ぶのか。唯一獲れていないEUROを狙うこと(つまり3度目のイタリア代表監督就任)は「絶対にない」と断言しているが、果たして?
4年前のEUROで決勝戦進出を果たしたイタリアは、今夏、68年大会以来の欧州制覇を狙っているが、その道のりは非常に険しい。ワールドカップでは過去2大会でグループリーグ敗退を喫しており、戦力的にも以前のようなビッグネームは乏しい状況にある。
クラブレベルでも、ユベントスを除けば、欧州カップでの競争力を持たないチームが多く、明らかにカルチョの世界における序列は下がってきており、この状況を改善する明確な術も見出せていない。
少し前まで、財政面ではスペイン、イングランド勢に劣るものの、ピッチ上では同等以上の力を誇ってきたイタリアのクラブ。今では国内でもタイトルとは無縁となっているミランは、2006-07シーズンにチャンピオンズ・リーグ(CL)優勝を果たしている。
そして10年前、代表レベルでもイタリアは世界を制した。ドイツの地で並み居る強国を次々に倒した彼らは、82年スペイン大会以来、4度目のW杯優勝を遂げたのだ。
現時点でカルチョ最後の栄光。それを母国にもたらしたのが、監督のマルチェロ・リッピである。
69年から82年まで、サンプドリア、ピストイエーゼなどで現役生活を送った後、指導者に転身。82年のサンプドリア・ユースでのコーチングを皮切りに、各クラブの監督を歴任した彼にとって転機となったのは、93-94シーズンにナポリを率いたことだった。
財政難に苦しむこのクラブを6位に引き上げた(前シーズンは11位)手腕を評価され、翌シーズンにユベントスに招聘されたリッピは、ここから名将としてのキャリアを歩むこととなる。
就任1年目でリーグ優勝、96年には欧州&世界制覇を果たし、国内では96-97シーズンからリーグ連覇、さらにCLでも97-98シーズンまで3シーズン連続でファイナリストとなるなど、ユベントスを欧州のトップクラブに変貌させた。
全選手に攻守での高い貢献度を求め、攻撃でのみ違いを見せられるような特別な存在を必要としなかったリッピは、ロベルト・バッジョら稀代のファンタジスタとは反目し合いながらも、結果を残したことで評価を高め、早くからイタリア代表監督就任を望まれるようなった。
99年からインテルを率い、01年にユベントスへ復帰。ここで2度スクデットを獲得した後、一時は休養すると宣言していた彼は、これを撤回し、ついにアズーリの指揮官に就任する。
EURO2004で無残なグループリーグ敗退を喫したチームの改革に乗り出し、守備の基盤を整えた上で攻撃を強化。イタリアは徐々に力を上げていったが、ドイツW杯前には国内リーグでの八百長スキャンダルに揺れ動き、リッピ自身も巻き込まれ、一時は解任も噂された。
そのような状況で、チームは動揺するどころか、逆に一丸となった。決勝トーナメントでは、準々決勝のウクライナ戦以外は厳しい試合が続いたものの、大会一の強力な守備と優れたタレントによる効率の良い攻撃でこれを乗り越え、ベルリンで栄光の夜を迎えた。
34年イタリア大会、38年フランス大会でのヴィットリオ・ポッツォ、82年大会でのエンツォ・ベアルツォットに次いで、イタリア人では3人目となる世界一の監督となったリッピ。クラブ、代表の両方で世界を制した初の指揮官という名誉も手に入れた。
ドイツ大会後に勇退し、2年後に再びアズーリを率いるも、10年南アフリカ大会ではグループリーグ敗退を喫して辞任したリッピは、12年に中国の広州恒大への移籍を発表。年俸10億円という破格の条件と併せて、世界を驚かせた。
ここでの3シーズンで残した成績は、3年連続リーグ優勝、そして13年にはAFCチャンピオンズリーグ優勝という文句のつけようのないもの。13年はアジア王者としてクラブワールドカップに出場し、バイエルン、ラジャ・カサブランカ、アトレチコ・ミネイロに次ぐ世界4位に輝いた。
現在はフリーのリッピには、幾つかオファーがあるようだが、果たして彼はいかなるキャリアを選ぶのか。唯一獲れていないEUROを狙うこと(つまり3度目のイタリア代表監督就任)は「絶対にない」と断言しているが、果たして?

戦前に2度の世界制覇を果たした名将ポッツォ(左端)。イタリア伝統の堅守速攻を確立した人物のひとりともいわれる。ちなみにイタリアが唯一勝ち取った68年のEURO(ネーションズ・カップ)でチームを率いたのは、フェルッチョ・ヴァルカレッジで、70年メキシコ大会でも準優勝の好成績を挙げている。 (C) Getty Images

82年W杯を制したベアルツォット。パイプがトレードマークの名将だった(リッピの場合は葉巻)。現在、イタリアの最優秀監督賞に、その名が冠せられている。ちなみに写真右端はベアルツォットの後任監督を務めたアツェリオ・ヴィチーニ、そして左端はベアルツォットのアシスタントを長く務め、後にアズーリ、アズーリ、パラグアイ代表を指揮したチェーザレ・マルディーニ。 (C) Getty Images