足かけ8年で成し遂げたプレミアリーグ310試合連続出場!

安定したセービングもさることながら、的確なコーチングはチームの守備力を高め、“最後の砦”としての信頼の厚さは抜群だった。 (C) Getty Images

ニューヨーク・ヤンキースからもドラフト指名を受けたメオラ。様々なスポーツをこなすだけでなく、俳優業にもチャレンジするなど、その活動は多岐にわたった。GKとしては何と言っても、94年W杯での、強豪相手の再三にわたるスーパーセーブは伝説となっている。CBアレクシー・ララスとともにDF陣をリードした。 (C) Getty Images
◇ブラッド・フリーデル:1971年5月18日生まれ アメリカ・オハイオ州出身
1950年に“サッカーの母国”イングランドを破って世界を驚かせたアメリカ。とはいえ、独自のスポーツ文化を有するがゆえにサッカーについては長く“不毛の地”といわれてきたが、そんな国の歴史が大きく変わったのは、1994年だった。
北米リーグで多くのスーパースターを招聘しても長続きせず、40年ぶりの本大会出場を決めた90年イタリアW杯では大したインパクトを残せず早期敗退を喫したアメリカでは、4年後の自国開催の大会においても、戦前は国民の大多数が自国の代表チームに関心を示さなかった。
そんな哀れなチームのなかで、最後尾からチームメイトに発破をかけ、自身は好守を連発したのが、GKトニー・メオラだった。バスケットボール、野球、アメリカンフットボールと、あらゆるアメリカの人気競技をハイレベルにこなした守護神は大会後、英雄のひとりとなっていた。
以降、国内リーグも整備され、再びサッカーがメジャースポーツのひとつとなったアメリカは、北米リーグの過ちを再び犯すことなく、国内リーグも盛り上がりを保ちながら、同時に代表チームも年々、レベルアップを遂げていった。
94年に激戦区のグループを突破して開催国としての義務を果たしたアメリカは、98年フランス大会、06年ドイツ大会ではグループリーグ敗退を喫するも、2002年日韓大会はベスト8、10年南アフリカ大会、14年ブラジル大会ではベスト16進出を果たしている。
最新のFIFAランキングで29位(日本は57位)につけるなど、世界的にも高いレベルにあるアメリカだが、そこには優れたGKの存在が必ずある。
前述のメオラ、90、98、02、06年大会と4度のW杯に出場したケーシー・ケラー、10、14年でゴールを守ったティム・ハワード……。
そして、ブラッド・フリーデルもそのひとりだ。アメリカ・サッカー史において最高の夏となった02年、極東の地でゴールマウスに立ち続けたのは、彼だった。
名門UCLAを卒業した後、デンマークのブレンビー、トルコのガラタサライでプレー。この間、ノッティンガム・フォレストやニューカッスル、サンダーランドといったプレミアリーグのクラブに興味持たれるも英国政府から労働許可が下りず、移籍はご破算となった。
96年にいったん帰国し、この年からスタートしたメジャーリーグサッカーのコロンバス・クルーに加入。2年目にはリーグのベストイレブンに選出されるほどの活躍を見せた。
そして97年夏、ついに労働許可の“壁”を打ち破り、名門リバプール入りを果たす。しかし、ここでは3シーズンで出場数は25試合止まり。00年夏には、当時チャンピオンシップ(2部リーグ)のブラックバーン移籍を決断した。
これがキャリアの転機となり、彼は正GKとしてプレミアリーグ昇格に貢献。翌シーズンにはリーグカップ優勝も経験する。02-03シーズンは15試合のクリーンシートを達成して6位という好成績を残し、翌シーズンのチャールトン戦では試合終了間際の攻撃参加からゴールも記録した。
04-05シーズンの開幕戦(WBA戦)から連続出場を保ち、08年からアストン・ビラ、11年からトッテナムと在籍クラブを変えながらもゴールマウスに立ち続け、12月10月で記録は310に達した。もちろんこれは、今でもプレミアリーグの記録である。
そして14-15シーズンをもってユニホームを脱ぐことを決断。43歳での引退だった。「自分の成し遂げたことを誇りに思う」と語った守護神の表情は、充実感に満ちていた。
ちなみに、彼と同様にプレミアリーグ(マンチェスター・U、エバートン)で長く活躍した現アメリカ代表GKハワード(37歳)も今シーズン限りでエバートンを退団、アメリカへの帰国を決断した。
これで、欧州の第一線で主力としてプレーする代表GKはアストン・ビラのブラッド・グザンぐらいである。彼も31歳。名GKの系譜を継ぐ、次なる若き有能なアメリカ人は誰か。
1950年に“サッカーの母国”イングランドを破って世界を驚かせたアメリカ。とはいえ、独自のスポーツ文化を有するがゆえにサッカーについては長く“不毛の地”といわれてきたが、そんな国の歴史が大きく変わったのは、1994年だった。
北米リーグで多くのスーパースターを招聘しても長続きせず、40年ぶりの本大会出場を決めた90年イタリアW杯では大したインパクトを残せず早期敗退を喫したアメリカでは、4年後の自国開催の大会においても、戦前は国民の大多数が自国の代表チームに関心を示さなかった。
そんな哀れなチームのなかで、最後尾からチームメイトに発破をかけ、自身は好守を連発したのが、GKトニー・メオラだった。バスケットボール、野球、アメリカンフットボールと、あらゆるアメリカの人気競技をハイレベルにこなした守護神は大会後、英雄のひとりとなっていた。
以降、国内リーグも整備され、再びサッカーがメジャースポーツのひとつとなったアメリカは、北米リーグの過ちを再び犯すことなく、国内リーグも盛り上がりを保ちながら、同時に代表チームも年々、レベルアップを遂げていった。
94年に激戦区のグループを突破して開催国としての義務を果たしたアメリカは、98年フランス大会、06年ドイツ大会ではグループリーグ敗退を喫するも、2002年日韓大会はベスト8、10年南アフリカ大会、14年ブラジル大会ではベスト16進出を果たしている。
最新のFIFAランキングで29位(日本は57位)につけるなど、世界的にも高いレベルにあるアメリカだが、そこには優れたGKの存在が必ずある。
前述のメオラ、90、98、02、06年大会と4度のW杯に出場したケーシー・ケラー、10、14年でゴールを守ったティム・ハワード……。
そして、ブラッド・フリーデルもそのひとりだ。アメリカ・サッカー史において最高の夏となった02年、極東の地でゴールマウスに立ち続けたのは、彼だった。
名門UCLAを卒業した後、デンマークのブレンビー、トルコのガラタサライでプレー。この間、ノッティンガム・フォレストやニューカッスル、サンダーランドといったプレミアリーグのクラブに興味持たれるも英国政府から労働許可が下りず、移籍はご破算となった。
96年にいったん帰国し、この年からスタートしたメジャーリーグサッカーのコロンバス・クルーに加入。2年目にはリーグのベストイレブンに選出されるほどの活躍を見せた。
そして97年夏、ついに労働許可の“壁”を打ち破り、名門リバプール入りを果たす。しかし、ここでは3シーズンで出場数は25試合止まり。00年夏には、当時チャンピオンシップ(2部リーグ)のブラックバーン移籍を決断した。
これがキャリアの転機となり、彼は正GKとしてプレミアリーグ昇格に貢献。翌シーズンにはリーグカップ優勝も経験する。02-03シーズンは15試合のクリーンシートを達成して6位という好成績を残し、翌シーズンのチャールトン戦では試合終了間際の攻撃参加からゴールも記録した。
04-05シーズンの開幕戦(WBA戦)から連続出場を保ち、08年からアストン・ビラ、11年からトッテナムと在籍クラブを変えながらもゴールマウスに立ち続け、12月10月で記録は310に達した。もちろんこれは、今でもプレミアリーグの記録である。
そして14-15シーズンをもってユニホームを脱ぐことを決断。43歳での引退だった。「自分の成し遂げたことを誇りに思う」と語った守護神の表情は、充実感に満ちていた。
ちなみに、彼と同様にプレミアリーグ(マンチェスター・U、エバートン)で長く活躍した現アメリカ代表GKハワード(37歳)も今シーズン限りでエバートンを退団、アメリカへの帰国を決断した。
これで、欧州の第一線で主力としてプレーする代表GKはアストン・ビラのブラッド・グザンぐらいである。彼も31歳。名GKの系譜を継ぐ、次なる若き有能なアメリカ人は誰か。