「バルサにもマンUにも認めてもらえなかった」マルチネッリの才能は、いかにして育まれたのか。体格のハンデを乗り越えたアーセナルの主軸ウインガーのルーツ【ブラジル発】
カテゴリ:ワールド
2024年02月29日
ロナウドの練習を見て感激し、本気でプロを目指す
例えばレアル・マドリーのヴィニシウスやロドリゴのように、鳴り物入りでブラジルから渡ってきたわけではない。いくつもの挫折を乗り越え、アーセナル入団を勝ち取ったガブリエウ・マルチネッリ。いまや崩しの切り札として君臨するウインガーの、知られざるルーツを辿る。
―――◆―――◆―――
ガブリエウ・マルチネッリは2001年6月18日、サンパウロ近郊の商工業都市グアルーリョスで生まれた。祖父がイタリア南部からの移住者であり、そのためブラジルとイタリアの国籍を持っている。
サッカーの英才教育を施したのは父親のジョアンだった。プロを目指したが志半ばでその道を諦めた父親は、自身の夢を息子に託したのだった。
父親の熱心な指導の甲斐もあり、サンパウロ市内の複数のビッグクラブでトライアウトを受けた結果、10年、9歳で名門コリンチャンスのフットサルチームに入団。マルチネッリのキャリアは、こうしてスタートした。
チーム練習が終わってからも、父親は自宅付近の空き地で息子に特訓を施した。「最初は左足がまったく使えなかったから、左足のキックを徹底的に練習させられた」と振り返るのは、右利きの本人だ。
父親はアカデミーのすべての試合に同行し、「あの場面はこうプレーすべきだった」などと細かく指摘した。「両親のサポートにはとても感謝しているけど、父だけじゃなく時には母からも『あそこはもっと強いシュートを打つべきだったんじゃないの?』なんて説教されて大変だったよ」とマルチネッリは苦笑する。
コリンチャンスの練習場では、大きな刺激も受けた。09年から在籍していた元ブラジル代表のスター、ロナウドのトレーニング姿を目の当たりにして感激したという。「彼のようにヨーロッパのビッグクラブで活躍して、セレソンの一員としてワールドカップでプレーしたいと、そう強く思ったんだ。あれから本気でプロを目指すようになった」と回想する。
【PHOTO】まさにスタジアムの華! ワールドクラスたちの妻、恋人、パートナーら“WAGs”を一挙紹介!
―――◆―――◆―――
ガブリエウ・マルチネッリは2001年6月18日、サンパウロ近郊の商工業都市グアルーリョスで生まれた。祖父がイタリア南部からの移住者であり、そのためブラジルとイタリアの国籍を持っている。
サッカーの英才教育を施したのは父親のジョアンだった。プロを目指したが志半ばでその道を諦めた父親は、自身の夢を息子に託したのだった。
父親の熱心な指導の甲斐もあり、サンパウロ市内の複数のビッグクラブでトライアウトを受けた結果、10年、9歳で名門コリンチャンスのフットサルチームに入団。マルチネッリのキャリアは、こうしてスタートした。
チーム練習が終わってからも、父親は自宅付近の空き地で息子に特訓を施した。「最初は左足がまったく使えなかったから、左足のキックを徹底的に練習させられた」と振り返るのは、右利きの本人だ。
父親はアカデミーのすべての試合に同行し、「あの場面はこうプレーすべきだった」などと細かく指摘した。「両親のサポートにはとても感謝しているけど、父だけじゃなく時には母からも『あそこはもっと強いシュートを打つべきだったんじゃないの?』なんて説教されて大変だったよ」とマルチネッリは苦笑する。
コリンチャンスの練習場では、大きな刺激も受けた。09年から在籍していた元ブラジル代表のスター、ロナウドのトレーニング姿を目の当たりにして感激したという。「彼のようにヨーロッパのビッグクラブで活躍して、セレソンの一員としてワールドカップでプレーしたいと、そう強く思ったんだ。あれから本気でプロを目指すようになった」と回想する。
【PHOTO】まさにスタジアムの華! ワールドクラスたちの妻、恋人、パートナーら“WAGs”を一挙紹介!
12年からはフットサルだけでなくサッカーチームを掛け持ちし、さらに練習に打ち込んだ。小学校のフットサルチームでも活躍していたマルチネッリは、11歳の時にグアルーリョス市の小学校対抗フットサル大会に出場。優勝を果たしている。
そのチームを率いた指導者の言葉を紹介しよう。
「チームで一番小柄だったが、スピードとテクニックがずば抜けていた」
「戦術はガブリエウ。ボールを渡しさえすれば、彼が何とかしてくれた」
「決勝でも仲間のゴレイロ(キーパー)からパスを受けると、相手のフィールドプレーヤー全員を抜き去り、最後は飛び出してきたゴレイロもかわしてゴール前にパス。それを仲間が押し込んだ。このゴールが、優勝に導く決勝点だった」
監督の称賛は続く。
「傑出した才能の持ち主だったが、チームの勝利を何よりも優先するプレーヤーで、エゴイストではまったくなかった。だからチームメイトからも信頼されていた」
U-11、U-13、U-15でプレーしたコリンチャンスでは、フットサルも含めると200ゴール以上をマーク。直接指導していたコーチは、「どのカテゴリーでも攻撃の中心だった」と振り返る。
最初の大きな転機は15年、14歳の時だった。父親の仕事の関係で、一家はサンパウロから北西に約100km離れた小都市イトゥへと引っ越すことになったのだ。コリンチャンスの練習場からは遠く、通うのは不可能で、名門クラブを退団せざるをえなくなる。マルチネッリは数日間泣き続けた。
「息子には申し訳なかったが、一家の生活を支えるためには、仕方がなかったんだ。苦渋の決断だった」
と父親は述懐する。
後悔を口にしたのは、当時のコリンチャンス関係者だ。
「優れた選手であるのはわかっていたから、サンパウロでの仕事を父親に斡旋して、チームに残す選択肢もあった。しかし、彼はとても小柄で、これほどのプレーヤーになるとは予測できず、退団させてしまった」
そのチームを率いた指導者の言葉を紹介しよう。
「チームで一番小柄だったが、スピードとテクニックがずば抜けていた」
「戦術はガブリエウ。ボールを渡しさえすれば、彼が何とかしてくれた」
「決勝でも仲間のゴレイロ(キーパー)からパスを受けると、相手のフィールドプレーヤー全員を抜き去り、最後は飛び出してきたゴレイロもかわしてゴール前にパス。それを仲間が押し込んだ。このゴールが、優勝に導く決勝点だった」
監督の称賛は続く。
「傑出した才能の持ち主だったが、チームの勝利を何よりも優先するプレーヤーで、エゴイストではまったくなかった。だからチームメイトからも信頼されていた」
U-11、U-13、U-15でプレーしたコリンチャンスでは、フットサルも含めると200ゴール以上をマーク。直接指導していたコーチは、「どのカテゴリーでも攻撃の中心だった」と振り返る。
最初の大きな転機は15年、14歳の時だった。父親の仕事の関係で、一家はサンパウロから北西に約100km離れた小都市イトゥへと引っ越すことになったのだ。コリンチャンスの練習場からは遠く、通うのは不可能で、名門クラブを退団せざるをえなくなる。マルチネッリは数日間泣き続けた。
「息子には申し訳なかったが、一家の生活を支えるためには、仕方がなかったんだ。苦渋の決断だった」
と父親は述懐する。
後悔を口にしたのは、当時のコリンチャンス関係者だ。
「優れた選手であるのはわかっていたから、サンパウロでの仕事を父親に斡旋して、チームに残す選択肢もあった。しかし、彼はとても小柄で、これほどのプレーヤーになるとは予測できず、退団させてしまった」