「1日トレーニングへ行くだけで成長を実感」
プロ選手の育成を標榜し3年前にスタートした相生学院高校(発足当時は神村学園淡路島学習センター)サッカー部の一期生から、遂にJ1プレーヤーが誕生した。
ヴィッセル神戸が同校の日髙光揮の獲得を決めたのは、卒業式も終えた3月末。すでに同じ相生学院サッカー部の一期生では、福井悠人がJ3のカマタマーレ讃岐で、山崎遥稀はドイツ(アレマニア・アーヘン)へ渡りU-19のブンデスリーガで戦い始めていた。だが唯一進路が未定だった日髙が、土壇場で最大の朗報をもたらすことになった。
実は日髙の神戸での練習参加は延べ3週間ほど続いた。高校在学中には全国大会も未経験だったので、さすがに当初は「レベルの高さに驚いた」という。とりわけアンドレス・イニエスタの凄さは異次元だった。
「マッチアップしても、何手も先を読み切っていてボールを動かしたり、それほどスピードが速いわけではないのに緩急で抜き去ったり、サッカーを極めている感じでした。ボール奪取も何度か試みたけれどダメでした。1度高いボールを頭で突こうとして『これは奪えた』と思ったら、あっさりとシャペウ(浮かせて外す)でかわされた。強いて挙げれば、守備練習の時にSBからアンドレスへ渡るボールを読んでパスカットしたくらいですね」
キャンプ中には、慣れない右インサイドハーフにも挑戦し「初日は戦術が理解できず、いろんな選手に聞いて回った」が、右後方から酒井高徳の神のような声が届いて来た。
「後ろに入れば安心できる方で、一言一句が重くコーチングが的確。2日目からは徐々に良くなり、少しずつ信頼を掴めたと思います」
こうして国内では究極のレベルの中に身を置く日々は、18歳のMFにとって最良の成長促進剤になった。
「1日1日のトレーニングで、学べること、吸収できることがたくさんありました。1日トレーニングへ行くだけで成長を実感できたほどです」
ヴィッセル神戸が同校の日髙光揮の獲得を決めたのは、卒業式も終えた3月末。すでに同じ相生学院サッカー部の一期生では、福井悠人がJ3のカマタマーレ讃岐で、山崎遥稀はドイツ(アレマニア・アーヘン)へ渡りU-19のブンデスリーガで戦い始めていた。だが唯一進路が未定だった日髙が、土壇場で最大の朗報をもたらすことになった。
実は日髙の神戸での練習参加は延べ3週間ほど続いた。高校在学中には全国大会も未経験だったので、さすがに当初は「レベルの高さに驚いた」という。とりわけアンドレス・イニエスタの凄さは異次元だった。
「マッチアップしても、何手も先を読み切っていてボールを動かしたり、それほどスピードが速いわけではないのに緩急で抜き去ったり、サッカーを極めている感じでした。ボール奪取も何度か試みたけれどダメでした。1度高いボールを頭で突こうとして『これは奪えた』と思ったら、あっさりとシャペウ(浮かせて外す)でかわされた。強いて挙げれば、守備練習の時にSBからアンドレスへ渡るボールを読んでパスカットしたくらいですね」
キャンプ中には、慣れない右インサイドハーフにも挑戦し「初日は戦術が理解できず、いろんな選手に聞いて回った」が、右後方から酒井高徳の神のような声が届いて来た。
「後ろに入れば安心できる方で、一言一句が重くコーチングが的確。2日目からは徐々に良くなり、少しずつ信頼を掴めたと思います」
こうして国内では究極のレベルの中に身を置く日々は、18歳のMFにとって最良の成長促進剤になった。
「1日1日のトレーニングで、学べること、吸収できることがたくさんありました。1日トレーニングへ行くだけで成長を実感できたほどです」
相生学院で最上級生になってからは、活動拠点の淡路島を離れることが多かった。社会人や大学のチームを皮切りに武者修行の連続で、Jクラブも「5~6チームは練習に参加させて頂いた」という。
「最初はまったく通用しませんでした。でも少しずつスピードや強度にも馴れ、昨春頃に地域リーグのクラブで練習した時には手応えがあり、次にJ3のクラブでも『案外やれるな』と。そうやっていろんなチームでプレーしながら伸びてきたんだと思います」
通信制だからこそ可能な新しい育成方法と言えるかもしれない。
大阪出身で地元のFCスエルテからガンバ堺ジュニアユースに進むが、ユースへの昇格は叶わなかった。小中学生時代のトレセン仲間がユースへ進み、遠い存在になっていく気がしていた時に、相生学院へと繋がるプロジェクトの発足を知り入学を決める。「直感だった」そうである。
「最初はまったく通用しませんでした。でも少しずつスピードや強度にも馴れ、昨春頃に地域リーグのクラブで練習した時には手応えがあり、次にJ3のクラブでも『案外やれるな』と。そうやっていろんなチームでプレーしながら伸びてきたんだと思います」
通信制だからこそ可能な新しい育成方法と言えるかもしれない。
大阪出身で地元のFCスエルテからガンバ堺ジュニアユースに進むが、ユースへの昇格は叶わなかった。小中学生時代のトレセン仲間がユースへ進み、遠い存在になっていく気がしていた時に、相生学院へと繋がるプロジェクトの発足を知り入学を決める。「直感だった」そうである。