勝つために「美しさ」を求める
サッカーとは、「多様性を受け入れる」ことなのだろう。
「プレーを楽しむ? 試合に負けて、どうやって楽しい気持ちになれるのさ? 美しいプレーと言われても、勝つためにやっているだけだよ」
90年代から2000年代にかけて、デポルティボで活躍したブラジル代表MFのジャウミーニャは、かつてインタビューでそう言い放ったものである。
ブラジル・サッカー=「ジョゴ・ボニート(美しいプレー)」――。そう喧伝された時期があった。
しかし、ジョゴ・ボニートの権化のような男は、勝利を目指すなかで、手段のひとつとして美しいプレーを選択していたに過ぎなかった。ボールを浮かし、相手の頭上を抜いたのは、それが有効だったからだ。彼にとって「美しさ」は、相手を打ちのめす手段になっていた。
<勝つためには、どんな方法だっていい>
日本では勝利への執着を語る時、その表現はネガティブな意味合いを孕む場合が少なくない。荒っぽいファウルで相手を止めたり、ベタ引きでカウンター狙ったりする。まさに、なりふり構わぬ手段だ。
しかし、「美しさ」も同様に、勝利のメソッドになり得る。美しさというと、脆さを連想させるかもしれないが、ジャウミーニャは「強靱さを伴った美しさ」を語っていた。つまり、サッカー選手やピッチでのプレーを、ひとつの常識や道徳で縛り付けるべきではないということだろう。
例えばアルゼンチンでは、あらゆる敗北が決して肯定されない。信じられないかもしれないが、彼らには「負けを糧にする」というメンタリティーがないのである。日本人なら、「挫折をバネに――」というのはスポーツにおける物語の王道にもなっているだろうが、地球の裏側では、それは理解されない。
<負けて学ぶことはない。勝者が成長するのだ>
その切迫した境地こそが、アルゼンチンをサッカーという競技では世界有数の大国に押し上げている。アルゼンチン人には、「勝つことでしか学べない、成長できない」という独自の規範があるのだ。
「プレーを楽しむ? 試合に負けて、どうやって楽しい気持ちになれるのさ? 美しいプレーと言われても、勝つためにやっているだけだよ」
90年代から2000年代にかけて、デポルティボで活躍したブラジル代表MFのジャウミーニャは、かつてインタビューでそう言い放ったものである。
ブラジル・サッカー=「ジョゴ・ボニート(美しいプレー)」――。そう喧伝された時期があった。
しかし、ジョゴ・ボニートの権化のような男は、勝利を目指すなかで、手段のひとつとして美しいプレーを選択していたに過ぎなかった。ボールを浮かし、相手の頭上を抜いたのは、それが有効だったからだ。彼にとって「美しさ」は、相手を打ちのめす手段になっていた。
<勝つためには、どんな方法だっていい>
日本では勝利への執着を語る時、その表現はネガティブな意味合いを孕む場合が少なくない。荒っぽいファウルで相手を止めたり、ベタ引きでカウンター狙ったりする。まさに、なりふり構わぬ手段だ。
しかし、「美しさ」も同様に、勝利のメソッドになり得る。美しさというと、脆さを連想させるかもしれないが、ジャウミーニャは「強靱さを伴った美しさ」を語っていた。つまり、サッカー選手やピッチでのプレーを、ひとつの常識や道徳で縛り付けるべきではないということだろう。
例えばアルゼンチンでは、あらゆる敗北が決して肯定されない。信じられないかもしれないが、彼らには「負けを糧にする」というメンタリティーがないのである。日本人なら、「挫折をバネに――」というのはスポーツにおける物語の王道にもなっているだろうが、地球の裏側では、それは理解されない。
<負けて学ぶことはない。勝者が成長するのだ>
その切迫した境地こそが、アルゼンチンをサッカーという競技では世界有数の大国に押し上げている。アルゼンチン人には、「勝つことでしか学べない、成長できない」という独自の規範があるのだ。