プレースタイルが適合したアーセナルで黄金時代の創成に貢献!
本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
さて今回、サッカーダイジェストWebに登場するのは、アーセナルで一世を風靡し、オランダ代表としても伝説を創成した真のフットボールマイスター、デニス・ベルカンプだ。
全く無駄のないボールコントロールと、あっと驚くアイデアで対峙するDFを手玉にとり、多くの芸術的なゴールを生み出した稀代のファンタジスタの偉大なる軌跡を、ここで振り返ってみよう。
――◇――◇――
デニス・ニコラース・マリア・ベルカンプがオランダ・アムステルダムで生まれたのは1969年5月10日。父ヴィム、母トニーとの4番目の子どもであり、名前の「デニス」は、父がスコットランドの名手、デニス・ローを好きだったことから付けられた。
その効力かどうかは定かではないが、ベルカンプは幼少の頃からサッカーに熱中して腕を上げ、11歳で名門アヤックスの下部組織に入団する。順調に得点能力を高めていった彼は1986年12月14日、ローダ戦でプロデビューを果たした。
17歳の少年をトップチームに引き上げ、プロの舞台に送り出したのは、オランダ・サッカー最大の英雄、ヨハン・クライフ。そして当時のチームには、後に世界最高のストライカーの称号を得るマルコ・ファン・バステンがキャプテンとして君臨していた。
86-87シーズン、アヤックスは欧州タイトルを獲得する。各国の国内カップ王者が集うカップウィナーズ・カップで、決勝戦では東ドイツ(当時)のロコモティフ・ライプツィヒを下した。
翌シーズンにミランへ移籍するファン・バステンが決勝ゴールを決めたこの一戦、ベルカンプは66分から交代で出場し、勝利の瞬間をピッチ上で迎えた。なおこのシーズン、彼はKNVBカップ(国内カップ)優勝も経験している。
ファン・バステンに続き、88年夏にはクライフもアヤックスを去ったが、ベルカンプは着実に成長を遂げてチームのエースとなり、89-90シーズンには、5年ぶりのリーグ制覇に貢献した。
90-91シーズンに25ゴールを挙げて初のリーグ得点王に輝くと、続く2シーズンも24得点、26得点を記録して、タイトルを防衛。この頃には、欧州、いや世界でも知らぬ者はいないストライカーとなっていた彼が、これ以上、オランダの留まることは不可能だった。
多くのクラブから誘いを受けるなか、ベルカンプが選んだのはインテル。セリエAでのプレーを臨んだ彼は、700万ポンドの移籍金をアヤックスへの置き土産として、同僚のヴィム・ヨンクとともに国外での挑戦を開始した。
意気揚々と当時の世界最高峰リーグに乗り込んだベルカンプだったが、カルチョの高度な守備に苦しんでデビューシーズンは8得点止まり(31試合出場)。UEFAカップ優勝も慰めとはならず、翌シーズンは21試合出場3得点と、さらに数字は悪化した。
成績が残せないだけでなく、シャイな性格が災いし、メディアやファンとの関係も良くなかったベルカンプは、95年夏、マッシモ・モラッティがインテルを買収し、大幅なチーム改造を行なうなかで放出候補に挙がり、新天地を求めることを余儀なくされる。
ここで、移籍先となったのがアーセナル。750万ユーロの移籍金は当時のクラブ最高額だった。ブルース・リオク監督の下、プレミアリーグでの1年目でベルカンプは、33試合に出場して11ゴールを挙げ、可能性を感じさせる。
そして翌シーズン、彼のキャリアにとって大きな出会いが訪れる。アーセン・ヴェンゲルの監督就任だ。フランス人智将が信奉する攻撃的なパスサッカーに、ベルカンプの特性が完全に適合し、ここから彼は水を得た魚のように躍動し、そしてチームは栄光の時を迎える。
ヴェンゲル体制の2年目となった97-98シーズン、アーセナルは7年ぶり、そしてプレミアリーグとなってからは初のリーグ制覇を果たしたが、ベルカンプは16ゴールを挙げてチームを牽引。FAカップとの二冠達成にも貢献し、自身は栄えあるPFA年間最優秀選手にも選出された。
ベルカンプは、キャリアの終焉を迎える06年までこのクラブで過ごしたが、ここでリーグ優勝3回(97-98、2001-02、03-04)、FAカップ4回(97-98、01-02、02-03、04-05)、コミュニティーシールド3回(98、02、04)のタイトルを獲得した。
クラブの歴史に残る黄金時代の創成に貢献した彼は、レジェンドとして引退後も崇められ、14年にはホームのエミレーツ・スタジアムに銅像が設置された。
さて今回、サッカーダイジェストWebに登場するのは、アーセナルで一世を風靡し、オランダ代表としても伝説を創成した真のフットボールマイスター、デニス・ベルカンプだ。
全く無駄のないボールコントロールと、あっと驚くアイデアで対峙するDFを手玉にとり、多くの芸術的なゴールを生み出した稀代のファンタジスタの偉大なる軌跡を、ここで振り返ってみよう。
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デニス・ニコラース・マリア・ベルカンプがオランダ・アムステルダムで生まれたのは1969年5月10日。父ヴィム、母トニーとの4番目の子どもであり、名前の「デニス」は、父がスコットランドの名手、デニス・ローを好きだったことから付けられた。
その効力かどうかは定かではないが、ベルカンプは幼少の頃からサッカーに熱中して腕を上げ、11歳で名門アヤックスの下部組織に入団する。順調に得点能力を高めていった彼は1986年12月14日、ローダ戦でプロデビューを果たした。
17歳の少年をトップチームに引き上げ、プロの舞台に送り出したのは、オランダ・サッカー最大の英雄、ヨハン・クライフ。そして当時のチームには、後に世界最高のストライカーの称号を得るマルコ・ファン・バステンがキャプテンとして君臨していた。
86-87シーズン、アヤックスは欧州タイトルを獲得する。各国の国内カップ王者が集うカップウィナーズ・カップで、決勝戦では東ドイツ(当時)のロコモティフ・ライプツィヒを下した。
翌シーズンにミランへ移籍するファン・バステンが決勝ゴールを決めたこの一戦、ベルカンプは66分から交代で出場し、勝利の瞬間をピッチ上で迎えた。なおこのシーズン、彼はKNVBカップ(国内カップ)優勝も経験している。
ファン・バステンに続き、88年夏にはクライフもアヤックスを去ったが、ベルカンプは着実に成長を遂げてチームのエースとなり、89-90シーズンには、5年ぶりのリーグ制覇に貢献した。
90-91シーズンに25ゴールを挙げて初のリーグ得点王に輝くと、続く2シーズンも24得点、26得点を記録して、タイトルを防衛。この頃には、欧州、いや世界でも知らぬ者はいないストライカーとなっていた彼が、これ以上、オランダの留まることは不可能だった。
多くのクラブから誘いを受けるなか、ベルカンプが選んだのはインテル。セリエAでのプレーを臨んだ彼は、700万ポンドの移籍金をアヤックスへの置き土産として、同僚のヴィム・ヨンクとともに国外での挑戦を開始した。
意気揚々と当時の世界最高峰リーグに乗り込んだベルカンプだったが、カルチョの高度な守備に苦しんでデビューシーズンは8得点止まり(31試合出場)。UEFAカップ優勝も慰めとはならず、翌シーズンは21試合出場3得点と、さらに数字は悪化した。
成績が残せないだけでなく、シャイな性格が災いし、メディアやファンとの関係も良くなかったベルカンプは、95年夏、マッシモ・モラッティがインテルを買収し、大幅なチーム改造を行なうなかで放出候補に挙がり、新天地を求めることを余儀なくされる。
ここで、移籍先となったのがアーセナル。750万ユーロの移籍金は当時のクラブ最高額だった。ブルース・リオク監督の下、プレミアリーグでの1年目でベルカンプは、33試合に出場して11ゴールを挙げ、可能性を感じさせる。
そして翌シーズン、彼のキャリアにとって大きな出会いが訪れる。アーセン・ヴェンゲルの監督就任だ。フランス人智将が信奉する攻撃的なパスサッカーに、ベルカンプの特性が完全に適合し、ここから彼は水を得た魚のように躍動し、そしてチームは栄光の時を迎える。
ヴェンゲル体制の2年目となった97-98シーズン、アーセナルは7年ぶり、そしてプレミアリーグとなってからは初のリーグ制覇を果たしたが、ベルカンプは16ゴールを挙げてチームを牽引。FAカップとの二冠達成にも貢献し、自身は栄えあるPFA年間最優秀選手にも選出された。
ベルカンプは、キャリアの終焉を迎える06年までこのクラブで過ごしたが、ここでリーグ優勝3回(97-98、2001-02、03-04)、FAカップ4回(97-98、01-02、02-03、04-05)、コミュニティーシールド3回(98、02、04)のタイトルを獲得した。
クラブの歴史に残る黄金時代の創成に貢献した彼は、レジェンドとして引退後も崇められ、14年にはホームのエミレーツ・スタジアムに銅像が設置された。