「とにかく試合に出たかった」
――その後はトントン拍子で、大成功につながっていったわけですね。
今、こうやって振り返ってみると、あの時が一番、自分に運があったなと思います(笑)。
――初年度の2009シーズンから、ハットトリックを2回(東京電力女子サッカー部マリーゼ戦、スペランツァF.C.高槻(現・コノミヤ・スペランツァ大阪高槻戦)されています。ご自身でも、絶好調という自覚はありましたか?
正直な話、「これはきているな」とか「ゾーンに入っているな」という実感はなかったです。最初にハットトリックしたマリーゼ戦は、初スタメンの試合でしたが、ケガ人が多いというチーム事情があってこそ、出られた試合でした。得点を重ねても、一度も「自分、調子がいいな」とか「イケてるな」とは思いませんでしたね。ただただ、ひたすら、がむしゃらにやっていました。
――「これだけやっているんだから、得点をとれて当然」という自信も……。
全くないです(笑)。試合が終わった後もトレーニングをしていたくらい自信はなかったです。試合が終わって、家に帰って、ジムに行って筋トレ。試合の次の日はオフでも、トレーニング。とにかく「自分はすべてにおいて、劣っている」と感じていた日々でした。
――リーグ戦で16点とっていても、自信につながらなかったですか?
振り返ってみれば「自分、よくやったな」とも思えますが、当時はもう、チームについていくのがやっとでしたから。「この人たちにどうにかついていって、追い抜くには、みんなが休んでいる時に自分がトレーニングするしかない」と焦っていました。
――それが、長く一流選手として活躍できるところに、つながったのではないですか。
そうですね…たぶんこれが、私が先ほど述べた「貯金」になったのかもしれないです。
――結果が出ても努力を怠らなかったということですよね。
今でもすぐに、不安になってしまうことはあります。若い選手が自主トレしている姿を見ると、「ヤバい!自分もやらなくちゃ!」と(笑)。根本的な部分は変わってないですね。
――初年度にうまくいった分、結果が出ない時、腐りそうになった事はなかったのですか?
2011年は、コンディション的にもメンタル的にもあまり良くなかったので、逃げ出したいなと思ったことはありました。でも、環境を変えるのではなく、自分は絶対ここで認められるんだ、という気持ちでしたね。
――そして、翌2012年シーズンには得点王に輝きました。
前のシーズンにチームがガラリと変わってなかなか試合に出られず、出場しても結果が出ないという悪循環でした。そんな中であのワールドカップがあって…。色んなことを考えさせられるシーズンの後、「どん底からだから、もう何も怖いものはない」という気持ちになれたんです。
加えて、「点をとらないと試合に出られない」と覚悟を固められるようになりました。チームでの自分の役割はゴールを挙げることで、仲間も自分にとらせてくれた。周囲の助けで頂いたものです。
――2013年は、結果を出しながらも、スタジアムを後にする時に悔しそうな表情をされていることが多かったように記憶しています。
自分が納得いかない部分が、顔に出ていたような気がします。
――試合後にも色々なことを考えていらっしゃる様子は、すごく伝わります。
普段から真顔になると、しかめっ面をしていることが多いのが難点ですね(笑)。悔しさとか、もっとできたのに、という自分のふがいなさに対しての怒りもあったかもしれません。
――苦しい時にがんばる髙瀬選手の特徴が出たのは、チームがどん底にあった2014年のシーズン。28試合で19ゴールを挙げています。
チームとしての結果を残せず、しんどいシーズンでした。2013年までリーグ3連覇してからの5位。チームがなかなか勝てず、キャプテンも務めていたので、「どうしたらいいのか」とひたすら考えていました。
――そういう苦労を積み重ねてきたからこそ、右サイドバックへのコンバートもすんなりと受け入れられたんでしょうか?
受け入れるというより、本当に、試合に出たかったんです。チームから私に与えられた役割がそこなんだ、という。もちろんSBへのコンバートは、最初は驚きました。ただ、「ピッチに立つことができて、役割を与えられているのだから」と。
――失礼ながら、髙瀬選手がそんなに器用なタイプだと思っていなかったので……。いきなりSBに溶け込んでいて、びっくりしました。
今プレーを見るとひどいですけど(笑)。ある程度は、ディフェンスの人たちがどういう動きをしているのかという、イメージだけは持てていたのは大きかったですね。あとは、周りの選手もなんとかしてくれるんじゃないか、助けてくれると信じて! SBとしてのデビュー戦(2017年の日テレ・ベレーザ(現・日テレ・東京ヴェルディベレーザ)戦)の勝利に貢献できたことはうれしかったです。
今、こうやって振り返ってみると、あの時が一番、自分に運があったなと思います(笑)。
――初年度の2009シーズンから、ハットトリックを2回(東京電力女子サッカー部マリーゼ戦、スペランツァF.C.高槻(現・コノミヤ・スペランツァ大阪高槻戦)されています。ご自身でも、絶好調という自覚はありましたか?
正直な話、「これはきているな」とか「ゾーンに入っているな」という実感はなかったです。最初にハットトリックしたマリーゼ戦は、初スタメンの試合でしたが、ケガ人が多いというチーム事情があってこそ、出られた試合でした。得点を重ねても、一度も「自分、調子がいいな」とか「イケてるな」とは思いませんでしたね。ただただ、ひたすら、がむしゃらにやっていました。
――「これだけやっているんだから、得点をとれて当然」という自信も……。
全くないです(笑)。試合が終わった後もトレーニングをしていたくらい自信はなかったです。試合が終わって、家に帰って、ジムに行って筋トレ。試合の次の日はオフでも、トレーニング。とにかく「自分はすべてにおいて、劣っている」と感じていた日々でした。
――リーグ戦で16点とっていても、自信につながらなかったですか?
振り返ってみれば「自分、よくやったな」とも思えますが、当時はもう、チームについていくのがやっとでしたから。「この人たちにどうにかついていって、追い抜くには、みんなが休んでいる時に自分がトレーニングするしかない」と焦っていました。
――それが、長く一流選手として活躍できるところに、つながったのではないですか。
そうですね…たぶんこれが、私が先ほど述べた「貯金」になったのかもしれないです。
――結果が出ても努力を怠らなかったということですよね。
今でもすぐに、不安になってしまうことはあります。若い選手が自主トレしている姿を見ると、「ヤバい!自分もやらなくちゃ!」と(笑)。根本的な部分は変わってないですね。
――初年度にうまくいった分、結果が出ない時、腐りそうになった事はなかったのですか?
2011年は、コンディション的にもメンタル的にもあまり良くなかったので、逃げ出したいなと思ったことはありました。でも、環境を変えるのではなく、自分は絶対ここで認められるんだ、という気持ちでしたね。
――そして、翌2012年シーズンには得点王に輝きました。
前のシーズンにチームがガラリと変わってなかなか試合に出られず、出場しても結果が出ないという悪循環でした。そんな中であのワールドカップがあって…。色んなことを考えさせられるシーズンの後、「どん底からだから、もう何も怖いものはない」という気持ちになれたんです。
加えて、「点をとらないと試合に出られない」と覚悟を固められるようになりました。チームでの自分の役割はゴールを挙げることで、仲間も自分にとらせてくれた。周囲の助けで頂いたものです。
――2013年は、結果を出しながらも、スタジアムを後にする時に悔しそうな表情をされていることが多かったように記憶しています。
自分が納得いかない部分が、顔に出ていたような気がします。
――試合後にも色々なことを考えていらっしゃる様子は、すごく伝わります。
普段から真顔になると、しかめっ面をしていることが多いのが難点ですね(笑)。悔しさとか、もっとできたのに、という自分のふがいなさに対しての怒りもあったかもしれません。
――苦しい時にがんばる髙瀬選手の特徴が出たのは、チームがどん底にあった2014年のシーズン。28試合で19ゴールを挙げています。
チームとしての結果を残せず、しんどいシーズンでした。2013年までリーグ3連覇してからの5位。チームがなかなか勝てず、キャプテンも務めていたので、「どうしたらいいのか」とひたすら考えていました。
――そういう苦労を積み重ねてきたからこそ、右サイドバックへのコンバートもすんなりと受け入れられたんでしょうか?
受け入れるというより、本当に、試合に出たかったんです。チームから私に与えられた役割がそこなんだ、という。もちろんSBへのコンバートは、最初は驚きました。ただ、「ピッチに立つことができて、役割を与えられているのだから」と。
――失礼ながら、髙瀬選手がそんなに器用なタイプだと思っていなかったので……。いきなりSBに溶け込んでいて、びっくりしました。
今プレーを見るとひどいですけど(笑)。ある程度は、ディフェンスの人たちがどういう動きをしているのかという、イメージだけは持てていたのは大きかったですね。あとは、周りの選手もなんとかしてくれるんじゃないか、助けてくれると信じて! SBとしてのデビュー戦(2017年の日テレ・ベレーザ(現・日テレ・東京ヴェルディベレーザ)戦)の勝利に貢献できたことはうれしかったです。