「言ってもオレと鬼木は鹿島(出身)だから」
また18年はセットプレーからの得点力も大きな武器だった。当時、鹿島からの期限付き移籍でプレーしていた平戸太貴は、プレースキッカーとして猛威を振るい、シーズン17アシストを記録。彼のキックを生かしたセットプレー、またスローインからの攻めを重要視してきた理由は「ゴールに直結するから」にほかならない。
現在、チーム不動の大黒柱に成長した平戸は、相馬監督についてこう話している。
「チームとしてどこを狙って、どうやって守るかという意思統一は、すごく細かくというか、こうしろ、という戦い方がハッキリしていました。当時はクラブとしての予算規模も大きくなかったですし、大型ストライカーとか、すごい選手がいたわけではないので、やり方をハッキリさせて、チームとしてまとまって戦うことで勝利を追求してきました。すべては勝利から逆算しての戦術や戦い方だったと思います」
現在、チーム不動の大黒柱に成長した平戸は、相馬監督についてこう話している。
「チームとしてどこを狙って、どうやって守るかという意思統一は、すごく細かくというか、こうしろ、という戦い方がハッキリしていました。当時はクラブとしての予算規模も大きくなかったですし、大型ストライカーとか、すごい選手がいたわけではないので、やり方をハッキリさせて、チームとしてまとまって戦うことで勝利を追求してきました。すべては勝利から逆算しての戦術や戦い方だったと思います」
バルセロナのチームスタイルに面白みを感じないと周囲に話していた事実が物語るように、町田で実践してきたサッカーは、スペクタクルとは無縁とも言えるチームスタイルだった。それもこれも、予算規模の少ないクラブがどうやって結果を残すか。相馬監督が知恵を絞り、“弱者が強者に勝つための方法論”を突き詰めた結果に過ぎない。その意味では、勝つためには手段を選ばない“鹿島イズム”の塊のような監督と言えるだろう。川崎が鬼木達監督の下、クラブ初のタイトルを手にした時のこと。「言ってもオレと鬼木は鹿島(出身)だから」という言葉を周囲に漏らしていたエピソードがその象徴だ。
町田時代に標榜してきたチームスタイルは、良い意味で“狂気のサッカー”と形容されることもあった。そんなチームスタイルで結果を残すこともあった相馬新監督は、クラブの予算規模も、抱える選手のクオリティも異なる“常勝軍団”では、どんな最適解を見つけ出すのだろうか。
取材・文●郡司 聡(フリーライター)