優勝トロフィーを故郷の人々に見せるために――。
当時のチームメイトで、ウイングとして多くのアシストを供給したドラガン・オクカは、こんな逸話を教えてくれた。
「あの決勝は凄い試合だった。我々は二度も劣勢に立たされたが、そのたびにバハ(バヒドの愛称)が同点ゴールを決めてくれた。最後は82分に彼が打ったシュートのこぼれ球を私が決めて競り勝ったんだが、バハは自分が決めたかのようにファンの下へ走って行き、他の選手たちも彼についていった。得点者の私のほうには誰も来なかったから、仕方なく私も仲間のもとへ走って行ったよ(笑)。
その後、『なぜ自分のゴールじゃないのに、あんなことをしたのか』と訊いたら、彼は笑ってこう答えた。『いつもの癖でね。ゴールすることに慣れているから、ネットが揺れた瞬間にファンのもとへ走り出してしまったんだ』とね。
モスタールに帰ると、私たちは英雄として迎えられた。誰もが通りに出て優勝を祝っていたね。するとその数日後、トロフィーが急になくなってしまったんだが、犯人はバハだった。(重さが)20キロもあるトロフィーをクラブから持ち出して、故郷のヤブラニツァの人々や家族に見せたかったと言うんだ。
もちろん、私や他のチームメイトも家族に直接見せてあげたかったとは思う。でもそんなことを実際にやってしまうのは、バハだけだったよ。強靭なパーソナリティのなせる業だよね」
当時のユーゴスラビアでは、28歳になるまで国外への移籍が禁止されており、ハリルホジッチがナントに移籍したのも29歳の時だった。
彼はそこでも成功を収め、在籍した5シーズンでリーグ優勝1回と2度のリーグ得点王を獲得。その後、パリ・サンジェルマンと大型契約を交わしたものの、プレーしたのは半年だけだった。理由は母親の死と父親の健康状態の不安で、その時に現役引退を決意した。
一方、代表でのキャリアは、彼の実力に見合うものではなかった。15試合・8得点に終わったのは政治的な理由によるものと考えられる。
当時の代表監督たちはセルビアやクロアチアの選手を重用したのだ。ハリルホジッチは不満を隠そうとせず、「おそらくベオグラードのメディアには、私の名前は長過ぎるのだろう」と皮肉をこぼしたこともある。
「あの決勝は凄い試合だった。我々は二度も劣勢に立たされたが、そのたびにバハ(バヒドの愛称)が同点ゴールを決めてくれた。最後は82分に彼が打ったシュートのこぼれ球を私が決めて競り勝ったんだが、バハは自分が決めたかのようにファンの下へ走って行き、他の選手たちも彼についていった。得点者の私のほうには誰も来なかったから、仕方なく私も仲間のもとへ走って行ったよ(笑)。
その後、『なぜ自分のゴールじゃないのに、あんなことをしたのか』と訊いたら、彼は笑ってこう答えた。『いつもの癖でね。ゴールすることに慣れているから、ネットが揺れた瞬間にファンのもとへ走り出してしまったんだ』とね。
モスタールに帰ると、私たちは英雄として迎えられた。誰もが通りに出て優勝を祝っていたね。するとその数日後、トロフィーが急になくなってしまったんだが、犯人はバハだった。(重さが)20キロもあるトロフィーをクラブから持ち出して、故郷のヤブラニツァの人々や家族に見せたかったと言うんだ。
もちろん、私や他のチームメイトも家族に直接見せてあげたかったとは思う。でもそんなことを実際にやってしまうのは、バハだけだったよ。強靭なパーソナリティのなせる業だよね」
当時のユーゴスラビアでは、28歳になるまで国外への移籍が禁止されており、ハリルホジッチがナントに移籍したのも29歳の時だった。
彼はそこでも成功を収め、在籍した5シーズンでリーグ優勝1回と2度のリーグ得点王を獲得。その後、パリ・サンジェルマンと大型契約を交わしたものの、プレーしたのは半年だけだった。理由は母親の死と父親の健康状態の不安で、その時に現役引退を決意した。
一方、代表でのキャリアは、彼の実力に見合うものではなかった。15試合・8得点に終わったのは政治的な理由によるものと考えられる。
当時の代表監督たちはセルビアやクロアチアの選手を重用したのだ。ハリルホジッチは不満を隠そうとせず、「おそらくベオグラードのメディアには、私の名前は長過ぎるのだろう」と皮肉をこぼしたこともある。