ユーベのDFリーダーであるボヌッチを選んだ理由は?
期待外れの数に関してはインテルがライバルのミランを大きく上回る。とりわけマッシモ・モラッティ会長時代は、大盤振る舞いしてはハズレ、という選手を毎年生み出すのが恒例だった。
なかでも、インテリスタの間でそのシンボルとして今なお語り継がれているのがMFヴァンペッタだ。ブラジル代表としては42試合に出場し、2002年ワールドカップの優勝メンバーに入ってすらいるのだが、クラブでの実績は少なくとも欧州ではほとんどゼロ。2000年夏、FWロビー・キーンと並ぶ補強の目玉としてインテル入りしたが、たった1試合に出場しただけでマルチェロ・リッピ監督に見限られ、半年後にはパリ・サンジェルマンへと厄介払いされて終わった。
さらに、同胞のモウリーニョのゴリ押しによって、移籍金2500万ユーロ(約30億円)で加入したものの、まったく活躍できず、得意の「トリベーラ」(右足アウトサイドのトリッキーなキック)を無駄打ちするプレースタイルが笑い話として記憶されているウインガーのリカルド・カレスマも忘れるわけにはいかない。
ボランチのフェリペ・メロに至っては、フィオレンティーナから移籍したユベントスでサポーターと対立して1年でガラタサライにレンタル放出され、そこから移籍したインテルでもトラブルメーカー扱いと、2つのメガクラブで悪評を積み重ねるワーストプレーヤーっぷりだ。
なかでも、インテリスタの間でそのシンボルとして今なお語り継がれているのがMFヴァンペッタだ。ブラジル代表としては42試合に出場し、2002年ワールドカップの優勝メンバーに入ってすらいるのだが、クラブでの実績は少なくとも欧州ではほとんどゼロ。2000年夏、FWロビー・キーンと並ぶ補強の目玉としてインテル入りしたが、たった1試合に出場しただけでマルチェロ・リッピ監督に見限られ、半年後にはパリ・サンジェルマンへと厄介払いされて終わった。
さらに、同胞のモウリーニョのゴリ押しによって、移籍金2500万ユーロ(約30億円)で加入したものの、まったく活躍できず、得意の「トリベーラ」(右足アウトサイドのトリッキーなキック)を無駄打ちするプレースタイルが笑い話として記憶されているウインガーのリカルド・カレスマも忘れるわけにはいかない。
ボランチのフェリペ・メロに至っては、フィオレンティーナから移籍したユベントスでサポーターと対立して1年でガラタサライにレンタル放出され、そこから移籍したインテルでもトラブルメーカー扱いと、2つのメガクラブで悪評を積み重ねるワーストプレーヤーっぷりだ。
今でこそセリエA8連覇とわが世の春を謳歌するユベントスだが、2006年のカルチョポリ・スキャンダルでセリエBに降格してから、アントニオ・コンテ監督の下で復活を遂げるまでの5~6年はかなり迷走していた。
とりわけ「黒歴史」と言えるのが2年連続で7位に終わった09-10からの2シーズン。前述したF・メロに加えて、独りよがりのドリブル突破だけが武器で、しかも好不調の波が大きく信頼性を欠いたサイドアタッカーのミロシュ・クラシッチは、ユベンティーニがこの時期の苦い思い出と共に記憶している名前だ。
そのユベントスで絶対的なディフェンスリーダーとして君臨するレオナルド・ボヌッチをリストに加えたのは、マッシミリアーノ・アッレーグリ監督との不仲でユーベを飛び出しながら、新加入でキャプテンに収まったミランでまったくリーダーシップを発揮できず、パフォーマンスもガタ落ちしてそれまでの評価を台無しにした1年ゆえ。
アトレティコ・マドリーで長年最終ラインを支え、やはり絶対的なリーダー候補としてインテル入りしながら、21歳のアレッサンドロ・バストーニにポジションを奪われて終わったディエゴ・ゴディンも、与えた失望の大きさではひけを取らない。このふたりと3バックを形成するウラティスラフ・グレスコは、2001-02シーズンにインテルが最終節でスクデットを自ら放り出した「5月5日」のシンボルとして記憶されている気の毒な左SBだ。
とりわけ「黒歴史」と言えるのが2年連続で7位に終わった09-10からの2シーズン。前述したF・メロに加えて、独りよがりのドリブル突破だけが武器で、しかも好不調の波が大きく信頼性を欠いたサイドアタッカーのミロシュ・クラシッチは、ユベンティーニがこの時期の苦い思い出と共に記憶している名前だ。
そのユベントスで絶対的なディフェンスリーダーとして君臨するレオナルド・ボヌッチをリストに加えたのは、マッシミリアーノ・アッレーグリ監督との不仲でユーベを飛び出しながら、新加入でキャプテンに収まったミランでまったくリーダーシップを発揮できず、パフォーマンスもガタ落ちしてそれまでの評価を台無しにした1年ゆえ。
アトレティコ・マドリーで長年最終ラインを支え、やはり絶対的なリーダー候補としてインテル入りしながら、21歳のアレッサンドロ・バストーニにポジションを奪われて終わったディエゴ・ゴディンも、与えた失望の大きさではひけを取らない。このふたりと3バックを形成するウラティスラフ・グレスコは、2001-02シーズンにインテルが最終節でスクデットを自ら放り出した「5月5日」のシンボルとして記憶されている気の毒な左SBだ。