逆転負けの衝撃は指揮官を想像以上に落胆させた。
指導者・河崎護を一言で表わすとするなら、『情熱家』だ。サッカーをこよなく愛し、かつサッカーを『人生』として、自らの元に集まってきた選手たちに、サッカーだけでなく、どの社会に出ても恥ずかしくないように、人間としての教育を徹底する。
河崎監督が母校・星稜にやってきたのは1985年。25歳の時だった。当時は『サッカー不毛の地』であった北信越において、サッカーを強くすることは至難の業と言われていた。だが、若さとその情熱で、2年後には星稜を6年ぶりのインターハイに、選手権には9年ぶりの出場に導くと、そこから星稜は全国大会常連校になっていく。
そして、2000年度には田中俊也(元広島など)、麦田和志(元徳島など)ら能力の高い選手が入学するようになり、翌年には豊田陽平(現鳥栖)、その翌年には本田圭佑(現ミラン)と橋本晃司(現川崎)が入学。01年には選手権ベスト8、02年度には高円宮杯全日本ユースで準優勝。そして2004年度には石川県勢初となる選手権ベスト4入りを果たし、全国屈指の名門校に成長を遂げた。今では大阪から越境入学した本田のように、全国から星稜に憧れてその門を叩く選手は増えた。
だが、河崎監督の信念は一切変わっていない。
「サッカーは人間がやるスポーツ。人間が磨かれていない奴ではできない。サッカーが上手くなるのはもちろん、人として社会に出ても恥ずかしくないようにしてあげないといけない。サッカーと人間教育。これを引き離してはいけない。一対なんだよ」
筆者も河崎監督の人間性に惹き付けられている人間のひとりだ。河崎監督と出会って15年。いろいろなものを学ばせてもらった。
「俺はね、情熱を持っている奴が大好きなんだ」
河崎監督は、よくこうした言葉を口にする。同時に「情熱があるということは、意欲がある。謙虚さがある。だからこそ、そういう人間をなんとかしてあげたいんだ」とも。それが星稜でサッカーがしたいと来てくれた選手たちであり、指導者を目指して縁もゆかりもない石川にやってきた木原氏であった。
しかし、サッカーをこよなく愛し、どんな時も変わらぬ情熱を注ぎ続けてきた河崎監督が、一瞬だけ弱気になったことがある。それはちょうど1年前の出来事だ。
2014年1月13日。改修前最後となった国立競技場で行なわれた選手権決勝。富山一を相手に、2点のリードを奪いながら、まさかの逆転負け。河崎監督にとって、この衝撃はあまりにも大きかった。
「いろんなことを考えた。試合も自分の采配が正しかったのかも考えた。今まで張りつめていたものがちょっと切れたというか、こんなに落胆が大きいと思わなかった」
筆者自身、初めて河崎監督の後ろ向きな言葉を聞いた。それほどまで、あの敗戦はショッキングだった。今だから記せるが、正直これまでの自分のやってきたこと、今後のことを迷ったこともあった。もしかすると、そのまま指導者人生をも……。
河崎監督が母校・星稜にやってきたのは1985年。25歳の時だった。当時は『サッカー不毛の地』であった北信越において、サッカーを強くすることは至難の業と言われていた。だが、若さとその情熱で、2年後には星稜を6年ぶりのインターハイに、選手権には9年ぶりの出場に導くと、そこから星稜は全国大会常連校になっていく。
そして、2000年度には田中俊也(元広島など)、麦田和志(元徳島など)ら能力の高い選手が入学するようになり、翌年には豊田陽平(現鳥栖)、その翌年には本田圭佑(現ミラン)と橋本晃司(現川崎)が入学。01年には選手権ベスト8、02年度には高円宮杯全日本ユースで準優勝。そして2004年度には石川県勢初となる選手権ベスト4入りを果たし、全国屈指の名門校に成長を遂げた。今では大阪から越境入学した本田のように、全国から星稜に憧れてその門を叩く選手は増えた。
だが、河崎監督の信念は一切変わっていない。
「サッカーは人間がやるスポーツ。人間が磨かれていない奴ではできない。サッカーが上手くなるのはもちろん、人として社会に出ても恥ずかしくないようにしてあげないといけない。サッカーと人間教育。これを引き離してはいけない。一対なんだよ」
筆者も河崎監督の人間性に惹き付けられている人間のひとりだ。河崎監督と出会って15年。いろいろなものを学ばせてもらった。
「俺はね、情熱を持っている奴が大好きなんだ」
河崎監督は、よくこうした言葉を口にする。同時に「情熱があるということは、意欲がある。謙虚さがある。だからこそ、そういう人間をなんとかしてあげたいんだ」とも。それが星稜でサッカーがしたいと来てくれた選手たちであり、指導者を目指して縁もゆかりもない石川にやってきた木原氏であった。
しかし、サッカーをこよなく愛し、どんな時も変わらぬ情熱を注ぎ続けてきた河崎監督が、一瞬だけ弱気になったことがある。それはちょうど1年前の出来事だ。
2014年1月13日。改修前最後となった国立競技場で行なわれた選手権決勝。富山一を相手に、2点のリードを奪いながら、まさかの逆転負け。河崎監督にとって、この衝撃はあまりにも大きかった。
「いろんなことを考えた。試合も自分の采配が正しかったのかも考えた。今まで張りつめていたものがちょっと切れたというか、こんなに落胆が大きいと思わなかった」
筆者自身、初めて河崎監督の後ろ向きな言葉を聞いた。それほどまで、あの敗戦はショッキングだった。今だから記せるが、正直これまでの自分のやってきたこと、今後のことを迷ったこともあった。もしかすると、そのまま指導者人生をも……。