ビエルサに影響され15歳で指導者を志す
――そのビエルサに影響されて指導者になろうと思ったそうですね?
B:えぇ、15歳の時に。ただ、ニューウェルスのリーグ優勝に大喜びした時から、すでにビエルサのような監督になりたいという漠然とした気持ちは芽生えていました。その時はまだ12歳で、もちろん戦術などは理解できませんでしたが。
当時はロサリオのアマチュアクラブでプレーしていたのですが、自分にはプロになるだけの素質がないと気づいていました。それでも何らかの形でサッカーに携わりたいと思って、17歳で本格的に指導者になる勉強を始めました。
――そして19歳という若さで、あのハビエル・マスチェラーノが育ったことで知られるサッカースクール「レナト・セサリーニ」の監督になったのですよね。レナトで指揮を執るのは簡単なことではないと思いますが、どういう経緯だったのですか?
B:当時、私が通っていた体育大学の同級生の父親がエクアドルの強豪エメレクで監督をしていて、レナトの創設者ホルヘ・ソラーリ(サンティアゴ・ソラーリの叔父)と知り合いだったことから、その同級生に毎日しつこく頼んで紹介してもらったんです。たまたま当時のレナトは10軍(13歳のカテゴリー)の監督が不在で、私がすでに8人制のサッカーでその世代の選手たちを指導した経験があったことから、コーチではなく10軍の監督をするチャンスを与えてもらいました。
――19歳の若者にいきなり監督を任せるとは、ソラーリもなかなか思い切った決断を下しましたね。
B:私の熱意を感じ取ってくれたのでしょうね。でもソラーリとは目指すプレースタイルが異なったので、何度も衝突したんですよ。レナトではピッチの横幅を活用するスタイルを教えていたのですが、私はとにかく「ビエルサ式」に心酔していたので、縦に速いサッカーをやりたいと主張し続けてね。高い位置からプレッシングをかける、インテンシティーの高いサッカーを目指していたんです。
あとになって、自分が間違っていたことに気づきました。レナトには独自のプレー哲学があったのに、私はそれを無視して自分のスタイルを植え付けようとしたのですからね。でも、あの経験があったおかげで、ひとつの戦術に固執してはいけないことを学びました。考え方が柔軟になり、サッカーの見方も広がったと感じています。
B:えぇ、15歳の時に。ただ、ニューウェルスのリーグ優勝に大喜びした時から、すでにビエルサのような監督になりたいという漠然とした気持ちは芽生えていました。その時はまだ12歳で、もちろん戦術などは理解できませんでしたが。
当時はロサリオのアマチュアクラブでプレーしていたのですが、自分にはプロになるだけの素質がないと気づいていました。それでも何らかの形でサッカーに携わりたいと思って、17歳で本格的に指導者になる勉強を始めました。
――そして19歳という若さで、あのハビエル・マスチェラーノが育ったことで知られるサッカースクール「レナト・セサリーニ」の監督になったのですよね。レナトで指揮を執るのは簡単なことではないと思いますが、どういう経緯だったのですか?
B:当時、私が通っていた体育大学の同級生の父親がエクアドルの強豪エメレクで監督をしていて、レナトの創設者ホルヘ・ソラーリ(サンティアゴ・ソラーリの叔父)と知り合いだったことから、その同級生に毎日しつこく頼んで紹介してもらったんです。たまたま当時のレナトは10軍(13歳のカテゴリー)の監督が不在で、私がすでに8人制のサッカーでその世代の選手たちを指導した経験があったことから、コーチではなく10軍の監督をするチャンスを与えてもらいました。
――19歳の若者にいきなり監督を任せるとは、ソラーリもなかなか思い切った決断を下しましたね。
B:私の熱意を感じ取ってくれたのでしょうね。でもソラーリとは目指すプレースタイルが異なったので、何度も衝突したんですよ。レナトではピッチの横幅を活用するスタイルを教えていたのですが、私はとにかく「ビエルサ式」に心酔していたので、縦に速いサッカーをやりたいと主張し続けてね。高い位置からプレッシングをかける、インテンシティーの高いサッカーを目指していたんです。
あとになって、自分が間違っていたことに気づきました。レナトには独自のプレー哲学があったのに、私はそれを無視して自分のスタイルを植え付けようとしたのですからね。でも、あの経験があったおかげで、ひとつの戦術に固執してはいけないことを学びました。考え方が柔軟になり、サッカーの見方も広がったと感じています。
――13歳の選手たちを指導するのは大変でしたか?
B:幸いにも、私が指導した選手たちはみんなとても賢くて、伝えようとすることをすぐに飲み込み、練習でも試合でもそれを表現してくれました。それよりも大変だったのは、選手の家族や学校の先生たちとのコミュニケーションです。子どもたちがサッカーと勉強を両立するうえで、できるだけ負担が減るように、宿題の量から授業の出席日数まで様々な面で協力してもらえないかとお願いしました。
それも育成の一部なので、とてもいい経験になりましたね。当時、指導した選手たちのなかには、パブロ・ピアッティ(現エスパニョール)やブルーノ・ビアンチ(現アトレティコ・トゥクマン)のように、後にプロになった子が何人かいたんですよ。
※続く中編では、人生を変えた恩師ビエルサやサンパオリとの出会いについて迫ります。
取材・文●チヅル・デ・ガルシア
B:幸いにも、私が指導した選手たちはみんなとても賢くて、伝えようとすることをすぐに飲み込み、練習でも試合でもそれを表現してくれました。それよりも大変だったのは、選手の家族や学校の先生たちとのコミュニケーションです。子どもたちがサッカーと勉強を両立するうえで、できるだけ負担が減るように、宿題の量から授業の出席日数まで様々な面で協力してもらえないかとお願いしました。
それも育成の一部なので、とてもいい経験になりましたね。当時、指導した選手たちのなかには、パブロ・ピアッティ(現エスパニョール)やブルーノ・ビアンチ(現アトレティコ・トゥクマン)のように、後にプロになった子が何人かいたんですよ。
※続く中編では、人生を変えた恩師ビエルサやサンパオリとの出会いについて迫ります。
取材・文●チヅル・デ・ガルシア