ブラジルとアルゼンチンのナンバーワンの融合は過去一度きり。

ナポリ市民に至福の時を提供したマラドーナとカレッカのコンビ。もちろんふたりをカバーした強力な守備陣、中盤の存在も、80年代のナポリ黄金期を語るうえでは欠かせない要素ではある。 (C) Getty Images
1987年、マラドーナ擁するナポリが獲得したのはブラジルのFWカレッカ。86年メキシコ・ワールドカップではブラジル代表で5点を挙げ、大会後にジーコ、ソクラテスといったスターが去ってからは、チームの不動のエースとして君臨した。
そんな選手が、当時世界一の選手であり、アルゼンチンの象徴だったマラドーナとコンビを組むことに世界中は驚き、興味と関心がナポリに注がれた。
このふたりが在籍した間、ナポリはスクデット、UEFAカップをひとつずつ獲得。約4シーズンの共演期間でカレッカが挙げた50を超えるゴールの多くが、マラドーナのアシストによって生まれ、その逆のケースも少なくはなかった(マラドーナの4シーズンの総得点数は46)。
この間、ナポリは週末ごとに熱狂に包まれ、本拠地サン・パオロのスタンドは常に超満員の観客により、立錐の余地がない状態となったのである。
また少し変わったところでは、84-85シーズン、フィオレンティーナにブラジルのソクラテスが加入したが、すでにアルゼンチンのダニエル・パサレラが所属していた。ふたりはポジションこそ攻守で異なるが、82年スペイン・ワールドカップではそれぞれの母国を率いたキャプテンであり、直接対峙もしていた。しかし残念ながら、この組み合わせは1シーズンのみであり、成績もリーグ9位と振るわなかった。
90年代中盤になると、ボスマン裁定によって外国人枠の規定が大幅に変わったこともあり、ブラジル人とアルゼンチン人の同居は何ら珍しいものではなくなったが、それでも両国の代表チームの顔が揃うことはまずなかった。
敢えてそれに近いものを挙げるなら、2004-05シーズンにミランで共に戦ったカカとエルナン・クレスポは、それぞれ当時の代表チームの中心選手だった(顔的存在だったとまでは言えないかもしれないが……)。
また04年から08年までのバルセロナには、ロナウジーニョとメッシがいた。しかしロナウジーニョ全盛時におけるメッシは、神童と呼ばれてはいたもののまだ駆け出しの存在であり、ともに代表チームをリードするという対等の立場にはなかった。
もっとも、誰をその国の顔と見るかは、個人の考えや好みによって違ってくるものであり、その意味では上記以外にも両国のスーパースター同士の組み合わせは存在するのだろうが、いずれにせよ、そういったコンビが生まれる可能性は極めて低いのは事実である。
そんな選手が、当時世界一の選手であり、アルゼンチンの象徴だったマラドーナとコンビを組むことに世界中は驚き、興味と関心がナポリに注がれた。
このふたりが在籍した間、ナポリはスクデット、UEFAカップをひとつずつ獲得。約4シーズンの共演期間でカレッカが挙げた50を超えるゴールの多くが、マラドーナのアシストによって生まれ、その逆のケースも少なくはなかった(マラドーナの4シーズンの総得点数は46)。
この間、ナポリは週末ごとに熱狂に包まれ、本拠地サン・パオロのスタンドは常に超満員の観客により、立錐の余地がない状態となったのである。
また少し変わったところでは、84-85シーズン、フィオレンティーナにブラジルのソクラテスが加入したが、すでにアルゼンチンのダニエル・パサレラが所属していた。ふたりはポジションこそ攻守で異なるが、82年スペイン・ワールドカップではそれぞれの母国を率いたキャプテンであり、直接対峙もしていた。しかし残念ながら、この組み合わせは1シーズンのみであり、成績もリーグ9位と振るわなかった。
90年代中盤になると、ボスマン裁定によって外国人枠の規定が大幅に変わったこともあり、ブラジル人とアルゼンチン人の同居は何ら珍しいものではなくなったが、それでも両国の代表チームの顔が揃うことはまずなかった。
敢えてそれに近いものを挙げるなら、2004-05シーズンにミランで共に戦ったカカとエルナン・クレスポは、それぞれ当時の代表チームの中心選手だった(顔的存在だったとまでは言えないかもしれないが……)。
また04年から08年までのバルセロナには、ロナウジーニョとメッシがいた。しかしロナウジーニョ全盛時におけるメッシは、神童と呼ばれてはいたもののまだ駆け出しの存在であり、ともに代表チームをリードするという対等の立場にはなかった。
もっとも、誰をその国の顔と見るかは、個人の考えや好みによって違ってくるものであり、その意味では上記以外にも両国のスーパースター同士の組み合わせは存在するのだろうが、いずれにせよ、そういったコンビが生まれる可能性は極めて低いのは事実である。