バルセロナでの日々。そして運命的な出会い
バルセロナでは語学学校に通いながら、すぐに現地の社会人チームでサッカーをプレーするようになる。
「言葉の勉強になるだろうなと。サッカーの街なので町クラブはいたるところにあるんです。トップリーグから、6部、7部のクラブまで。言葉も分からないから、6部くらいのクラブを調べて直接行って、『サッカーやりたい』『テスト受けたい』と覚えたスペイン語で伝えました。相手の返事は全然理解できなかったけど、結果、プレーさせてもらうクラブが見つかりました」
1年分の生活費を持ってスペインに渡った。そして日本食レストランでウエイターの仕事をしながら、町クラブでサッカーをするという生活は2年に及んだ。そろそろ日本に帰ろうか、という頃合いだったが、町クラブのレベルとは言え、スペインでサッカーをするなかで小寺さんは「日本にいた頃とは全然違うサッカーの理解の仕方を自分自身がしている。そのことに気付いた」のだという。
小寺さんはそれまではフィジカルや技術的な部分をより意識してプレーしていたが、スペインではより判断の部分の改善を求めてくる。そこをもっと突き詰めたい、という想いに駆られ、現地のサッカー指導者スクールへの通学を決めた。
「朝、指導者スクールに行って、昼から日本食レストランで仕事、夜は社会人チームでサッカーの練習。授業料もあるし生活はギリギリでしたね。でもとても充実していました」
「言葉の勉強になるだろうなと。サッカーの街なので町クラブはいたるところにあるんです。トップリーグから、6部、7部のクラブまで。言葉も分からないから、6部くらいのクラブを調べて直接行って、『サッカーやりたい』『テスト受けたい』と覚えたスペイン語で伝えました。相手の返事は全然理解できなかったけど、結果、プレーさせてもらうクラブが見つかりました」
1年分の生活費を持ってスペインに渡った。そして日本食レストランでウエイターの仕事をしながら、町クラブでサッカーをするという生活は2年に及んだ。そろそろ日本に帰ろうか、という頃合いだったが、町クラブのレベルとは言え、スペインでサッカーをするなかで小寺さんは「日本にいた頃とは全然違うサッカーの理解の仕方を自分自身がしている。そのことに気付いた」のだという。
小寺さんはそれまではフィジカルや技術的な部分をより意識してプレーしていたが、スペインではより判断の部分の改善を求めてくる。そこをもっと突き詰めたい、という想いに駆られ、現地のサッカー指導者スクールへの通学を決めた。
「朝、指導者スクールに行って、昼から日本食レストランで仕事、夜は社会人チームでサッカーの練習。授業料もあるし生活はギリギリでしたね。でもとても充実していました」
指導者スクールには2年間通学したが、並行して社会人クラブの下部組織での指導も行なうようになっていった。
スペイン語はマスターしつつあったがもちろん完璧ではない。「子どもたちに言葉で笑われたりして悔しい想いをしながら」の指導だった。だがその後指導の現場は増え、翻訳の仕事なども舞い込むようになり、ついには就労ビザを取得。この頃にはサッカー指導者の道で生きていきたい、との決意も固めた。そしてもう2~3年スペインで指導者として力量を高め、指導者として日本に戻りたいと考えるようになっていた。
そんな2016年の終わりごろ、出会いが訪れる。きっかけは、日本育ちのペルー人の知人からの連絡だった。実はロティーナ監督との契約で最終合意のサインをするため、ヴェルディの羽生英之社長がバルセロナを訪れるにあたり、通訳を探していたのだ。その仕事を請け負う予定だったその知人はとある事情があって対応できず、小寺さんにその仕事を替わってもらいたい、と連絡してきたのだった。
ロティーナ監督と羽生社長が挨拶がてらの雑談をしたその席にはイバンコーチも同席し、お互いのサッカー観について意見を出し合っていた。その会話の通訳に専念しながらも、小寺さんはその場をとても楽しんでいた。
「その意見交換の内容が、自分の学んできたものととても似ている」と感じたという。と同時に、指導者として日本に帰りたい、との考えにも変化が起きていた。ヴェルディがクラブで働くスペイン語の通訳を探していることも知っていたからだ。
「スペインのサッカーといってもいろいろあるんです。ロティーナ監督の話からは、自分が学んで実践してきたサッカーと同じフィロソフィーを感じた。通訳としてでも、それをJリーグの世界でどう導入してどう戦うのか、現場で間近で観るということにとても魅力を感じました。一緒に働きたい、と」
スペイン語はマスターしつつあったがもちろん完璧ではない。「子どもたちに言葉で笑われたりして悔しい想いをしながら」の指導だった。だがその後指導の現場は増え、翻訳の仕事なども舞い込むようになり、ついには就労ビザを取得。この頃にはサッカー指導者の道で生きていきたい、との決意も固めた。そしてもう2~3年スペインで指導者として力量を高め、指導者として日本に戻りたいと考えるようになっていた。
そんな2016年の終わりごろ、出会いが訪れる。きっかけは、日本育ちのペルー人の知人からの連絡だった。実はロティーナ監督との契約で最終合意のサインをするため、ヴェルディの羽生英之社長がバルセロナを訪れるにあたり、通訳を探していたのだ。その仕事を請け負う予定だったその知人はとある事情があって対応できず、小寺さんにその仕事を替わってもらいたい、と連絡してきたのだった。
ロティーナ監督と羽生社長が挨拶がてらの雑談をしたその席にはイバンコーチも同席し、お互いのサッカー観について意見を出し合っていた。その会話の通訳に専念しながらも、小寺さんはその場をとても楽しんでいた。
「その意見交換の内容が、自分の学んできたものととても似ている」と感じたという。と同時に、指導者として日本に帰りたい、との考えにも変化が起きていた。ヴェルディがクラブで働くスペイン語の通訳を探していることも知っていたからだ。
「スペインのサッカーといってもいろいろあるんです。ロティーナ監督の話からは、自分が学んで実践してきたサッカーと同じフィロソフィーを感じた。通訳としてでも、それをJリーグの世界でどう導入してどう戦うのか、現場で間近で観るということにとても魅力を感じました。一緒に働きたい、と」