専門学校に通うとともにWebサイトの仕事できっかけ
夢の上位ランク・2位だったクラブスタッフへの道。その道は、最終的に人の縁が導き出したものだが、そこに至るまでのプロセスは、自らの力で切り拓いてきた。
近藤氏は日本大学(国際関係学部)卒業後、日本ジャーナリスト専門学校の門を叩く。同校では原稿の書き方のイロハから、積極的に行動することや人脈の重要性を学んだ。近藤氏は同校で学んだことを実践するかのように、Web媒体への企画持ち込みで原稿執筆のチャンスをつかむ。さらに講師の紹介でサンケイスポーツのtoto予想面の編集や現場記者を歴任。その過程で今後を左右するターニングポイントが訪れた。
忘れもしないあれは、04年の夏だった。サンスポの文化報道部に在籍していた時のことだった。所属の部長と運動部の部長に一室へ呼ばれた近藤氏は、その場でJ1昇格初年度のアルビレックス新潟担当を言い渡された。
「『何かやらかしたかな?』と思いながら扉を開きましたが、実際に新潟担当を言い渡された瞬間は『ついにきたか!』と思いましたね。『これでやりたいことをやれるな』と」
スポーツ紙のサッカー担当。念願だったポジションをつかんだ近藤氏は、反町康治監督率いる北京五輪代表の密着取材やジーコジャパン、オシムジャパンなど、代表系の取材を続ける一方で、関東圏のクラブの担当も歴任した。のちにゼルビア入りのきっかけを与えてくれた唐井氏とは、ジェフ千葉の取材現場で出会った。
「今にして振り返れば、専門学校で学んだ積極性と人脈作りの重要性、そして諸先輩方のサポートのおかげで、今の自分があるのだと思います」
夢を手にするために、近藤氏はすべての経験値を人生の糧としてきた。サンスポでの晩年は野球記者として高校野球や大学野球、プロ野球の巨人担当として汗を流し、09年途中には講談社のサッカー専門サイトへと移籍。その後は、クラブ広報のポストに就いた現在に至っている。
近藤氏は日本大学(国際関係学部)卒業後、日本ジャーナリスト専門学校の門を叩く。同校では原稿の書き方のイロハから、積極的に行動することや人脈の重要性を学んだ。近藤氏は同校で学んだことを実践するかのように、Web媒体への企画持ち込みで原稿執筆のチャンスをつかむ。さらに講師の紹介でサンケイスポーツのtoto予想面の編集や現場記者を歴任。その過程で今後を左右するターニングポイントが訪れた。
忘れもしないあれは、04年の夏だった。サンスポの文化報道部に在籍していた時のことだった。所属の部長と運動部の部長に一室へ呼ばれた近藤氏は、その場でJ1昇格初年度のアルビレックス新潟担当を言い渡された。
「『何かやらかしたかな?』と思いながら扉を開きましたが、実際に新潟担当を言い渡された瞬間は『ついにきたか!』と思いましたね。『これでやりたいことをやれるな』と」
スポーツ紙のサッカー担当。念願だったポジションをつかんだ近藤氏は、反町康治監督率いる北京五輪代表の密着取材やジーコジャパン、オシムジャパンなど、代表系の取材を続ける一方で、関東圏のクラブの担当も歴任した。のちにゼルビア入りのきっかけを与えてくれた唐井氏とは、ジェフ千葉の取材現場で出会った。
「今にして振り返れば、専門学校で学んだ積極性と人脈作りの重要性、そして諸先輩方のサポートのおかげで、今の自分があるのだと思います」
夢を手にするために、近藤氏はすべての経験値を人生の糧としてきた。サンスポでの晩年は野球記者として高校野球や大学野球、プロ野球の巨人担当として汗を流し、09年途中には講談社のサッカー専門サイトへと移籍。その後は、クラブ広報のポストに就いた現在に至っている。
のちにゼルビア入りのきっかけを与えてくれた唐井氏とは、千葉の取材現場で出会った。千葉担当時代には「サッカー界トップクラスのGM」である唐井氏から多くのことを学んだという。
その後は08年に野球担当となり、早稲田大学・斎藤佑樹選手(現・日本ハム)らで人気を博していた大学野球、読売ジャイアンツの担当など約1年半、野球記者を続けてきた。しかし、やはりサッカーの仕事に戻りたいという思いが湧き上がり、09年途中に講談社のサッカー専門サイト「ゲキサカ」へと移籍。その後、クラブ広報のポストに就い
その後は08年に野球担当となり、早稲田大学・斎藤佑樹選手(現・日本ハム)らで人気を博していた大学野球、読売ジャイアンツの担当など約1年半、野球記者を続けてきた。しかし、やはりサッカーの仕事に戻りたいという思いが湧き上がり、09年途中に講談社のサッカー専門サイト「ゲキサカ」へと移籍。その後、クラブ広報のポストに就い