日本代表はもっと泥臭く、もっと美しく、もっと貪欲に、もっと華麗に
さて、今の時代はどうなっているんであろう。今の選手たちはスマホ、タブレット、パソコンからWeb、SNSから学ぶことが多くなっているのであろうか? デジタルから感じ、デジタル化から学ぶ時代とでも言うのだろう。
人と人が接し、人と人の間に生まれるモノから何かを感じとったり、熱く語り合って、喧嘩になったり、人間らしく、知らないことを知っていく、恥をかいて、泣いて、笑ってという環境が少なくなっているのではないか?
Googleでサッカー、戦術と検索すればきっと何か出てくる。サッカー界、スポーツ界だけではなく、世の中全体がそうなっている。いまやインターネットの情報からなんでも学べる時代になっているのだ。
以前、知人に頼まれ講演会をやったことがある。それは中間管理職の方に人を育てるという題目でどう部下にモチベーションを持たせるかという難しい内容でもあった。
そんな中、部下たち(若い世代)は一緒に飲みに、食事はいかない。そこまで関与されたくない。これ以上、出世、偉くならなくても良い、給与もそんなに上がらなくても良い。というのだ……。
鹿児島独自の「郷中(ごじゅう)教育」など通用しないのである。
サッカーの世界、プロの世界ではそんなことはないが、先輩から学ぶという環境は大事でもあるが、正しいかは分からない。
サッカーも日々、進化、進歩していくものであり、同じ選手間で育む時代ではないのかもしれない。僕の時代、アマチュアリーグの中でのノンプロ、ノンアマ選手とは違う。
選手たちは選手から密かに学び、盗む。背中を見て感じ取る。そんなシャイな時代だ。
僕らは「先輩、食事に連れて行ってください」「飲みに連れて行ってください」「教えて下さい」の時代であった。
もちろん150年前の明治維新、西郷隆盛、大久保利通、島津斉彬の時代とはそれは違う。ただ昔の良き文化、風習からの教育。もう一度、取り入れられるかを考える価値はあるのではないか?
ワールドカップのグループリーグも多くのサプライズが起きている。サプライズと決めつけるのもどうなんであろうか? という時代に突入しているのかもしれない。メッシやネイマールも良いがマラドーナとペレはもっと精神的に強く面白かった、と思い出させる試合内容だ。
クリスチアーノ・ロナウドはエウゼビオより美しい。だからポルトガル代表としての英雄で良いのだ。だが、クライフやベッケンバウアー、プラティニとは違う。彼らの方が自分以外の事を考えていたように感じられる。結果ではない何かを残している。こうした点でも昔の選手は思い出せるのだ。
日本代表も年々、スケールダウンしているように思う瞬間がある。盲点が生まれているというか、自己評価をしっかりするべきだと思う。
ワールドカップへ出場するために、2002年は開催国としてグループリーグを絶対に突破しなければ……と、監督、コーチ、選手、携わる人だけではなく国民がそう思って必死にやっていた。
まだ、嫌、またそんな事を思い出させる日本代表である。もっと泥臭く、もっと美しく、もっと貪欲にもっと華麗にならなくてはいけないのが日本代表だ。
日本サッカー界は必死に走って今がある。ただもっとしっかり走らなくてはいけない。そこに薩摩藩独自の「郷中(ごじゅう)教育」。昔のやり方からヒントを得るのも悪くない。
そんな事を感じた。
2018年6月23日
三浦泰年
人と人が接し、人と人の間に生まれるモノから何かを感じとったり、熱く語り合って、喧嘩になったり、人間らしく、知らないことを知っていく、恥をかいて、泣いて、笑ってという環境が少なくなっているのではないか?
Googleでサッカー、戦術と検索すればきっと何か出てくる。サッカー界、スポーツ界だけではなく、世の中全体がそうなっている。いまやインターネットの情報からなんでも学べる時代になっているのだ。
以前、知人に頼まれ講演会をやったことがある。それは中間管理職の方に人を育てるという題目でどう部下にモチベーションを持たせるかという難しい内容でもあった。
そんな中、部下たち(若い世代)は一緒に飲みに、食事はいかない。そこまで関与されたくない。これ以上、出世、偉くならなくても良い、給与もそんなに上がらなくても良い。というのだ……。
鹿児島独自の「郷中(ごじゅう)教育」など通用しないのである。
サッカーの世界、プロの世界ではそんなことはないが、先輩から学ぶという環境は大事でもあるが、正しいかは分からない。
サッカーも日々、進化、進歩していくものであり、同じ選手間で育む時代ではないのかもしれない。僕の時代、アマチュアリーグの中でのノンプロ、ノンアマ選手とは違う。
選手たちは選手から密かに学び、盗む。背中を見て感じ取る。そんなシャイな時代だ。
僕らは「先輩、食事に連れて行ってください」「飲みに連れて行ってください」「教えて下さい」の時代であった。
もちろん150年前の明治維新、西郷隆盛、大久保利通、島津斉彬の時代とはそれは違う。ただ昔の良き文化、風習からの教育。もう一度、取り入れられるかを考える価値はあるのではないか?
ワールドカップのグループリーグも多くのサプライズが起きている。サプライズと決めつけるのもどうなんであろうか? という時代に突入しているのかもしれない。メッシやネイマールも良いがマラドーナとペレはもっと精神的に強く面白かった、と思い出させる試合内容だ。
クリスチアーノ・ロナウドはエウゼビオより美しい。だからポルトガル代表としての英雄で良いのだ。だが、クライフやベッケンバウアー、プラティニとは違う。彼らの方が自分以外の事を考えていたように感じられる。結果ではない何かを残している。こうした点でも昔の選手は思い出せるのだ。
日本代表も年々、スケールダウンしているように思う瞬間がある。盲点が生まれているというか、自己評価をしっかりするべきだと思う。
ワールドカップへ出場するために、2002年は開催国としてグループリーグを絶対に突破しなければ……と、監督、コーチ、選手、携わる人だけではなく国民がそう思って必死にやっていた。
まだ、嫌、またそんな事を思い出させる日本代表である。もっと泥臭く、もっと美しく、もっと貪欲にもっと華麗にならなくてはいけないのが日本代表だ。
日本サッカー界は必死に走って今がある。ただもっとしっかり走らなくてはいけない。そこに薩摩藩独自の「郷中(ごじゅう)教育」。昔のやり方からヒントを得るのも悪くない。
そんな事を感じた。
2018年6月23日
三浦泰年