監督としてもラウールはあくまでカスティージャのスポーツマンだった。彼は言葉よりも行動で示すことを好む。着飾ることよりも本質を大切にする。そして努力を惜しまない。フットボールは自己犠牲精神を要求し、マドリーは厳しさから学ぶものだと常に知っていたからだ。
加えて個人の数字よりもチームの勝利を重視する姿勢は、最初にクラブ、次にチーム、そして最後に選手というマドリーの理念と完璧に一致した。昨今のフットボール選手が持っている影響力への自覚は、ラウールが内面化したこの優先順位を揺るがすべきではない。
我々その他大勢は、嬉しい出来事が起こっても、思い出として記憶に残る程度だ。ラウールはそれを智慧に変える。現役時代にプレーしたすべての試合を、永遠の教訓として心に刻み込んだ。その経験の百科事典は彼の頭の中にあり、それをカスティージャの若い選手たちに伝授した。
目標相応しい門からマドリーに帰還することだ
クラブ史上初のUEFAユースリーグ制覇に導き、教え子の何人かはシーズンが終了するごとに何百万ユーロもの移籍金を置き土産にマドリーを去っていった。そして彼もまた次の一歩を踏み出した。
ラウールは故郷を離れて新たなサイクルをスタートさせる。いつもの野心と競争心で、生まれてから培ってきた全ての学び、一流のコーチ陣、豊富な経験を引っ提げて臨む。目の前に広がっているのは彼が常に好む巨大な挑戦だ。目標は、いつかの日か相応しい門から帰還することだ。
文●ホルヘ・バルダーノ
翻訳●下村正幸
【著者プロフィール】
ホルヘ・バルダーノ/1955年10月4日、アルゼンチンのロス・パレハス生まれ。現役時代はストライカーとして活躍し、73年にニューウェルズでプロデビューを飾ると、75年にアラベスへ移籍。79~84年までプレーしたサラゴサでの活躍が認められ、84年にはレアル・マドリーへ入団。87年に現役を引退するまでプレーし、ラ・リーガ制覇とUEFAカップ優勝を2度ずつ成し遂げた。75年にデビューを飾ったアルゼンチン代表では、2度のW杯(82年と86年)に出場し、86年のメキシコ大会では優勝に貢献。現役引退後は、テネリフェ、マドリー、バレンシアの監督を歴任。その後はマドリーのSDや副会長を務めた。現在は、『エル・パイス』紙でコラムを執筆しているほか、解説者としても人気を博している。
※『サッカーダイジェストWEB』では日本独占契約に基づいて『エル・パイス』紙に掲載されたバルダーノ氏のコラムを翻訳配信しています。
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翻訳●下村正幸
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ホルヘ・バルダーノ/1955年10月4日、アルゼンチンのロス・パレハス生まれ。現役時代はストライカーとして活躍し、73年にニューウェルズでプロデビューを飾ると、75年にアラベスへ移籍。79~84年までプレーしたサラゴサでの活躍が認められ、84年にはレアル・マドリーへ入団。87年に現役を引退するまでプレーし、ラ・リーガ制覇とUEFAカップ優勝を2度ずつ成し遂げた。75年にデビューを飾ったアルゼンチン代表では、2度のW杯(82年と86年)に出場し、86年のメキシコ大会では優勝に貢献。現役引退後は、テネリフェ、マドリー、バレンシアの監督を歴任。その後はマドリーのSDや副会長を務めた。現在は、『エル・パイス』紙でコラムを執筆しているほか、解説者としても人気を博している。
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