「選手としての未練は何もなかった。やり切った」
現役引退を決めた時期、勤めていた会社が倒産してしまった。貯金を取り崩しながら2、3か月生活していたが、それも底を付きそうになる。サッカーコーチをしている友人が「生活に困っているなら一緒にやらないか」と高野に声をかけた。ピッチに行くとお父さんコーチたちが子どもたちにサッカーを教えていた。やがて、高野は「うちの娘にもサッカーを教えてほしい。謝礼は1時間このぐらいで」と父親のひとりから頼まれた。
「それから噂が広まり、口コミでいろんなところから『教えてくれ』となった。サッカーを教え始めたら、そっちのほうに火が付いてしまった。だから選手としての未練は何もなかった。選手としてはやり切った。アメリカで指導者ライセンスを取り始めたのも、サッカー仲間から『取っておいたほうがいい』と言われたからです。イングランドの指導者ライセンスも、アメリカで取り始めました」
こうして指導者・高野剛が誕生した。
「当時のアメリカのお父さん・お母さんたちはNASL(旧北米サッカーリーグ)でペレ、ベッケンバウアーたちがプレーして、サッカーが流行った世代です。シアトル・サウンダーズがNASLに参加していたということもあり、シアトルでサッカーは人気スポーツでした。サッカーは高校までアメリカの4大スポーツより人気があるんですが、それが大人まで続かず、『アメリカはサッカー不毛の地』と言われていたんです」
アメリカに骨を埋めるつもりだった。
「7年間、アメリカでサッカーを指導しました。ワシントン州内で私の名前も知られてきて、いろいろなところから声がかかり、パーソナルトレーナーをしたり街クラブのアカデミーダイレクターをしたり、本気でやったら年間800万円くらいの収入になるんです。『これは素晴らしいな』と思ってました」
だが、指導者として軌道に乗った高野だったが、ビザの延長に目処が立たなかった。
「これ一本でやりたいのにビザが切れてしまう。この地域にはマイクロソフト(本社レドモンド)やマッキー(同ウッディンビル)といった世界的に有名な会社があり、上層部の人や弁護士などの息子さん、娘さんを私は教えていた。彼らが私のことを『コイツはできるぞ』と認めてくれたので『俺たちがビザのことを何とかしてやる』と申請のことなど調べてくれたんですが、その最中にビザが切れてしまい、日本に帰らないといけなくなった」
出国までの1か月半、荷物をまとめながら「ひょっとして、これはチャンスなのかな」と高野はずっと考えていた。
「2005年、Jリーグが発足して10年余り。俺もJリーグで本当のプロを目ざせるかもしれない。それが無理だったとしても、ビザのことを気にすることなく自分で街クラブを作るのもいい。そっちに気持ちを切り替えよう――。そういう気持ちで帰国しました」
「それから噂が広まり、口コミでいろんなところから『教えてくれ』となった。サッカーを教え始めたら、そっちのほうに火が付いてしまった。だから選手としての未練は何もなかった。選手としてはやり切った。アメリカで指導者ライセンスを取り始めたのも、サッカー仲間から『取っておいたほうがいい』と言われたからです。イングランドの指導者ライセンスも、アメリカで取り始めました」
こうして指導者・高野剛が誕生した。
「当時のアメリカのお父さん・お母さんたちはNASL(旧北米サッカーリーグ)でペレ、ベッケンバウアーたちがプレーして、サッカーが流行った世代です。シアトル・サウンダーズがNASLに参加していたということもあり、シアトルでサッカーは人気スポーツでした。サッカーは高校までアメリカの4大スポーツより人気があるんですが、それが大人まで続かず、『アメリカはサッカー不毛の地』と言われていたんです」
アメリカに骨を埋めるつもりだった。
「7年間、アメリカでサッカーを指導しました。ワシントン州内で私の名前も知られてきて、いろいろなところから声がかかり、パーソナルトレーナーをしたり街クラブのアカデミーダイレクターをしたり、本気でやったら年間800万円くらいの収入になるんです。『これは素晴らしいな』と思ってました」
だが、指導者として軌道に乗った高野だったが、ビザの延長に目処が立たなかった。
「これ一本でやりたいのにビザが切れてしまう。この地域にはマイクロソフト(本社レドモンド)やマッキー(同ウッディンビル)といった世界的に有名な会社があり、上層部の人や弁護士などの息子さん、娘さんを私は教えていた。彼らが私のことを『コイツはできるぞ』と認めてくれたので『俺たちがビザのことを何とかしてやる』と申請のことなど調べてくれたんですが、その最中にビザが切れてしまい、日本に帰らないといけなくなった」
出国までの1か月半、荷物をまとめながら「ひょっとして、これはチャンスなのかな」と高野はずっと考えていた。
「2005年、Jリーグが発足して10年余り。俺もJリーグで本当のプロを目ざせるかもしれない。それが無理だったとしても、ビザのことを気にすることなく自分で街クラブを作るのもいい。そっちに気持ちを切り替えよう――。そういう気持ちで帰国しました」
それから月日が経ち、アメリカで指導した子どもたちは成人した。ある親から高野の元にメールが届いた。
「高野、ありがとう。誇りに思ってほしい。あの子は弁護士になりました。あの子はお医者さんになりました。あの子は大手会計事務所に勤めてます。あの子はミス・アラスカに選ばれました。それはあなたの力です。あなたは子どもたちに、何かに打ち込むことの大切さを教えてくれたのです」
「それは彼ら、彼女らの力で成し遂げたことなんだけどな」と感じながらも、高野には思い当たる節もあった。アメリカはマルチスポーツが当然の国。週末、午前中はサッカー、午後はバスケットボールが重なることもある。そのことについて、高野はルールを設けたのだ。
「スポーツをいろいろやることは、私も否定しません。しかし、最優先するスポーツを持ったほうがいい。活動日が重なったらバスケットボールを選んでもいい。だけど、その場合は、うちのチームで次の試合に出ることができない。
一方、アメリカのスポーツ事情もあるので、『年に3回だけは他のスポーツの試合を優先してもいいよ。だけどそれ以上はダメだよ』と少しバッファー(緩衝帯)を設けました。だけど、サッカーをやるときは練習も含めてここで一生懸命やる、と。あれから何年も経ってから『なにかに打ち込むということを教えてくれた』とメールが来ました。誰かの人生に貢献できて嬉しいと思いました」
アメリカでスポーツはあくまでスポーツであって、体育ではないはず。それでも高野の指導に人生訓を得た親や子どもたちがいたのだ。
「当時のアメリカにはMLSがなく、その下部組織もなかったので、街クラブが中心でした。趣味としてエンジョイしたい人たちがあるグループがあれば、『大学の特待生を狙うぞ』という真剣なグループもあって、その間にラインがあるんです。
STVVのアカデミーもエリート(育成)と街クラブ(普及)に分かれているんです。普及はU6からU19まであって、あくまで趣味としてサッカーをやりたい人。エリートはエリート。プロを目ざす子どもたちです。そういうところを目ざしている子どもの親は『人として』という価値観の大事さを知っている人が比較的多いです。特にSTVVのあるシント=トロイデンのエリアはハードワークを飛び切り大切にします。
アメリカでも両方のグループを指導しました。趣味でやりたい子どもたちには、楽しい雰囲気、楽しいドリル、試合環境を作ってあげる。そして『もうちょっとうまくできたら、もっと楽しいよ』というのは教える。だけど上達や向上を目ざすと、彼らにはストレスにしかならない。
一方、『プロを目ざすぞ』『特待生を狙うぞ』という子どもたちは、『そこに行くためにどうしたらいいのか教えてほしい』と思っている。そのためにはこういう技術が必要だ、こういう戦術理解が必要だ、だから規律もしっかりやることも大事だ――ということなんです」
「高野、ありがとう。誇りに思ってほしい。あの子は弁護士になりました。あの子はお医者さんになりました。あの子は大手会計事務所に勤めてます。あの子はミス・アラスカに選ばれました。それはあなたの力です。あなたは子どもたちに、何かに打ち込むことの大切さを教えてくれたのです」
「それは彼ら、彼女らの力で成し遂げたことなんだけどな」と感じながらも、高野には思い当たる節もあった。アメリカはマルチスポーツが当然の国。週末、午前中はサッカー、午後はバスケットボールが重なることもある。そのことについて、高野はルールを設けたのだ。
「スポーツをいろいろやることは、私も否定しません。しかし、最優先するスポーツを持ったほうがいい。活動日が重なったらバスケットボールを選んでもいい。だけど、その場合は、うちのチームで次の試合に出ることができない。
一方、アメリカのスポーツ事情もあるので、『年に3回だけは他のスポーツの試合を優先してもいいよ。だけどそれ以上はダメだよ』と少しバッファー(緩衝帯)を設けました。だけど、サッカーをやるときは練習も含めてここで一生懸命やる、と。あれから何年も経ってから『なにかに打ち込むということを教えてくれた』とメールが来ました。誰かの人生に貢献できて嬉しいと思いました」
アメリカでスポーツはあくまでスポーツであって、体育ではないはず。それでも高野の指導に人生訓を得た親や子どもたちがいたのだ。
「当時のアメリカにはMLSがなく、その下部組織もなかったので、街クラブが中心でした。趣味としてエンジョイしたい人たちがあるグループがあれば、『大学の特待生を狙うぞ』という真剣なグループもあって、その間にラインがあるんです。
STVVのアカデミーもエリート(育成)と街クラブ(普及)に分かれているんです。普及はU6からU19まであって、あくまで趣味としてサッカーをやりたい人。エリートはエリート。プロを目ざす子どもたちです。そういうところを目ざしている子どもの親は『人として』という価値観の大事さを知っている人が比較的多いです。特にSTVVのあるシント=トロイデンのエリアはハードワークを飛び切り大切にします。
アメリカでも両方のグループを指導しました。趣味でやりたい子どもたちには、楽しい雰囲気、楽しいドリル、試合環境を作ってあげる。そして『もうちょっとうまくできたら、もっと楽しいよ』というのは教える。だけど上達や向上を目ざすと、彼らにはストレスにしかならない。
一方、『プロを目ざすぞ』『特待生を狙うぞ』という子どもたちは、『そこに行くためにどうしたらいいのか教えてほしい』と思っている。そのためにはこういう技術が必要だ、こういう戦術理解が必要だ、だから規律もしっかりやることも大事だ――ということなんです」