トップレベルのプロレフェリーはとにかくオーラが凄い!
――大学卒業後はどうされたのでしょうか?
「JAさいたまに就職しました。社会人でサッカーを続けたかったのもありまして、準公務員的な時間に余裕のある職場を探していました。母が農家ということもあり、仕事にも興味を持てました」
――以前にお話をお伺いした際に「就職してからもプロを諦めきれずにJクラブのテストを受けた」とおっしゃられていました。ある意味、引きずれるくらいのレベルにいたということでしょうか?
「大学でもプレーしていましたから、私より上手くてプロになっていない人たちがいるのも頭では分かっています。自分のレベルがプロに値するとかではなく、『もしかしたら、どこかでプレーができるのでは?』と諦めがつかない、踏ん切りがつかない感じでした」
――そのプロになりたい気持ちから行動した、と。中澤さんと似たプロセスですね。
「中澤さんから話も訊いていたので、影響はあると思います。私もJリーグ各クラブに連絡させて頂いて、練習生としてでも参加させてくれるクラブを探していました。そして、あるクラブのセレクションを受け、半年くらい練習生として参加させて頂きましたが、契約には至りませんでした」
――なるほど。やり切って、次のステップに進もうと思えたわけですね。
「はい。それで、教員の道に進みました。教員に決めた理由のひとつに、サッカーに関わりたいというのがありました。職業だけの選択で言うと、すごく格好良い言い方をすれば、人の役に立つ職業に就きたかった。警察官、消防士、教員を考え、最終的に警察官と教員の採用試験を受けて、サッカーに関われるという部分も含めて、教員を選びました」
――今のところ、レフェリーの話はまったく出てきませんが、教員になってから中村さんのレフェリー人生がスタートしますよね。以前にお話を伺った時に、最初の赴任先に埼玉県の審判委員会委員長がいて、中村さんは本当は監督やコーチなどの技術系に進みたかったけれど、審判を進められてレフェリーの世界に入っていったと。若さもあり、トントンと級が上がっていくなかで、大変さを感じたのはいつくらいでしょうか?
「1級審判員になり、Jリーグ担当審判員になると、コンスタントに割り当てが入るようになります。それで自分に大変さが生じたわけではなく、教員として、顧問として、今まで生徒たちにかけられた時間を削らなければいけないこと。分かりやすく言えば、土日のどちらかは自分の時間を優先しないといけませんから、生徒たちに対する申し訳なさやジレンマはありました」
「JAさいたまに就職しました。社会人でサッカーを続けたかったのもありまして、準公務員的な時間に余裕のある職場を探していました。母が農家ということもあり、仕事にも興味を持てました」
――以前にお話をお伺いした際に「就職してからもプロを諦めきれずにJクラブのテストを受けた」とおっしゃられていました。ある意味、引きずれるくらいのレベルにいたということでしょうか?
「大学でもプレーしていましたから、私より上手くてプロになっていない人たちがいるのも頭では分かっています。自分のレベルがプロに値するとかではなく、『もしかしたら、どこかでプレーができるのでは?』と諦めがつかない、踏ん切りがつかない感じでした」
――そのプロになりたい気持ちから行動した、と。中澤さんと似たプロセスですね。
「中澤さんから話も訊いていたので、影響はあると思います。私もJリーグ各クラブに連絡させて頂いて、練習生としてでも参加させてくれるクラブを探していました。そして、あるクラブのセレクションを受け、半年くらい練習生として参加させて頂きましたが、契約には至りませんでした」
――なるほど。やり切って、次のステップに進もうと思えたわけですね。
「はい。それで、教員の道に進みました。教員に決めた理由のひとつに、サッカーに関わりたいというのがありました。職業だけの選択で言うと、すごく格好良い言い方をすれば、人の役に立つ職業に就きたかった。警察官、消防士、教員を考え、最終的に警察官と教員の採用試験を受けて、サッカーに関われるという部分も含めて、教員を選びました」
――今のところ、レフェリーの話はまったく出てきませんが、教員になってから中村さんのレフェリー人生がスタートしますよね。以前にお話を伺った時に、最初の赴任先に埼玉県の審判委員会委員長がいて、中村さんは本当は監督やコーチなどの技術系に進みたかったけれど、審判を進められてレフェリーの世界に入っていったと。若さもあり、トントンと級が上がっていくなかで、大変さを感じたのはいつくらいでしょうか?
「1級審判員になり、Jリーグ担当審判員になると、コンスタントに割り当てが入るようになります。それで自分に大変さが生じたわけではなく、教員として、顧問として、今まで生徒たちにかけられた時間を削らなければいけないこと。分かりやすく言えば、土日のどちらかは自分の時間を優先しないといけませんから、生徒たちに対する申し訳なさやジレンマはありました」
――2010年の天皇杯、東京ヴェルディ対FC町田ゼルビア戦でプロの厳しさを知ったとお話されていましたが、他にターニングポイントとなったような試合はありますか?
「2級審判員として活動していた時、私が割り当てられた大会に視察か何かは分からないのですが、プロフェッショナルレフェリーの扇谷健司さんが来られていました。そこで初めて、Jリーグ担当審判員の中でもトップレベルのレフェリーの方にお会いしたのですが、2級審判員からすると、ペガサス的な空想上の存在じゃないですか(笑)。とにかくオーラが凄くて、当時の私は26歳くらいでしたから、プロのレフェリーの凄みが怖いというか...」
――(笑)。都並敏史氏が欧州のトップレフェリーを見て「試合前にスーツ姿で見かけたけど、スター選手のようなオーラがあった」と解説していたこともありましたから、おっしゃられている事は何となく分かります。扇谷さんと印象的なやりとりがあったのでしょうか?
「話しかけて頂いたのですが、うまく喋れませんでした(苦笑)。なので、当時の話をすると、扇谷さんに『態度悪かったなぁ』と言われます(笑)。緊張していただけなんですけどね。
扇谷さんでトップレフェリーのオーラを感じた後に、サテライトリーグでプロフェッショナルレフェリーの佐藤隆治さんがレフェリーを務める試合の副審の割り当てを受けました。隆治さんの速さ、そして上手さ。試合後には隆治さんからお話も聞けて、プロとしての意識の高さに驚きました。
扇谷さんと隆治さん、ふたりのプロにお会いしたことで、何となくプロを意識し始めました。ある意味で、ターニングポイントだったかもしれません」
「2級審判員として活動していた時、私が割り当てられた大会に視察か何かは分からないのですが、プロフェッショナルレフェリーの扇谷健司さんが来られていました。そこで初めて、Jリーグ担当審判員の中でもトップレベルのレフェリーの方にお会いしたのですが、2級審判員からすると、ペガサス的な空想上の存在じゃないですか(笑)。とにかくオーラが凄くて、当時の私は26歳くらいでしたから、プロのレフェリーの凄みが怖いというか...」
――(笑)。都並敏史氏が欧州のトップレフェリーを見て「試合前にスーツ姿で見かけたけど、スター選手のようなオーラがあった」と解説していたこともありましたから、おっしゃられている事は何となく分かります。扇谷さんと印象的なやりとりがあったのでしょうか?
「話しかけて頂いたのですが、うまく喋れませんでした(苦笑)。なので、当時の話をすると、扇谷さんに『態度悪かったなぁ』と言われます(笑)。緊張していただけなんですけどね。
扇谷さんでトップレフェリーのオーラを感じた後に、サテライトリーグでプロフェッショナルレフェリーの佐藤隆治さんがレフェリーを務める試合の副審の割り当てを受けました。隆治さんの速さ、そして上手さ。試合後には隆治さんからお話も聞けて、プロとしての意識の高さに驚きました。
扇谷さんと隆治さん、ふたりのプロにお会いしたことで、何となくプロを意識し始めました。ある意味で、ターニングポイントだったかもしれません」