最後の挨拶をするためにスクーターを飛ばして…
ペレの試合を見せてくれたのは父だった。母はペレとのセレンディピティーをプレゼントしてくれた。
ペレは私のことを気に入ってくれたのか、それとも7か国語が話せる語学力を便利に思っただけなのか、とにかくそれから機会があると通訳を頼まれるようになった。ペレは気遣いの人だった。彼からは本当に多くを教えられたが、最大のそれは謙虚さだ。一国の大統領に会うときも、一介のサポーターに接するときも、ペレはまったく変わらなかった。常に誠実で、相手を思いやり、丁寧な物腰だった。12歳で父を亡くした私はペレに父親を見ていたのかもしれない。
ペレの訃報を知ったのは、彼が息を引き取って十数分後だった。ペレに近い人が連絡をくれたのだ。その瞬間、私の周りの世界は止まり、すべての感覚が麻痺した。覚悟はしていたつもりでも、受け止めきれるものではなかった。すぐに世界中の知り合いから連絡が入り、私はいくつものテレビ番組でコメントした。ただし、実感はないままだった。
ペレは私のことを気に入ってくれたのか、それとも7か国語が話せる語学力を便利に思っただけなのか、とにかくそれから機会があると通訳を頼まれるようになった。ペレは気遣いの人だった。彼からは本当に多くを教えられたが、最大のそれは謙虚さだ。一国の大統領に会うときも、一介のサポーターに接するときも、ペレはまったく変わらなかった。常に誠実で、相手を思いやり、丁寧な物腰だった。12歳で父を亡くした私はペレに父親を見ていたのかもしれない。
ペレの訃報を知ったのは、彼が息を引き取って十数分後だった。ペレに近い人が連絡をくれたのだ。その瞬間、私の周りの世界は止まり、すべての感覚が麻痺した。覚悟はしていたつもりでも、受け止めきれるものではなかった。すぐに世界中の知り合いから連絡が入り、私はいくつものテレビ番組でコメントした。ただし、実感はないままだった。
ペレに最後の挨拶をするために、サンパウロからスクーターを飛ばしてサントスに向かった。私の夢を叶え、それ以上を返してくれたペレ。どうしても直接、「オブリガード(ありがとう)」を伝えたかった。
あれは日韓W杯だった。サポーターに囲まれて身動きが取れなくなっていたペレは、そこにちょうど通りかかった私を認めると大きな声でこう叫んだ。
「リカルド! リカルド!!」
私は驚くと同時に感動に震えた。サッカーの王様が自分の名前を覚えてくれている。私の名前を呼んでいる!
その声は今もはっきりと耳に残っている。柔らかく伸びのあるあの声がもう二度と聞けないのかと、そう思うと寂しくてたまらない──。
文●リカルド・セティオン
翻訳●利根川晶子
【著者プロフィール】
1963年8月29日生まれ、ブラジル・サンパウロ出身。ジャーナリストとして中東戦争やユーゴスラビア紛争などを現地取材した後、社会学としてサッカーを研究。スポーツジャーナリストに転身する。8か国語を操る語学力を駆使し、世界中を飛び回って現場を取材。多数のメディアで活躍する。FIFAの広報担当なども務め、ジーコやカフーなどとの親交も厚い。現在はスポーツ運営学、心理学の教授として大学で教鞭も執っている。
※『ワールドサッカーダイジェスト』2023年2月2日号より転載
あれは日韓W杯だった。サポーターに囲まれて身動きが取れなくなっていたペレは、そこにちょうど通りかかった私を認めると大きな声でこう叫んだ。
「リカルド! リカルド!!」
私は驚くと同時に感動に震えた。サッカーの王様が自分の名前を覚えてくれている。私の名前を呼んでいる!
その声は今もはっきりと耳に残っている。柔らかく伸びのあるあの声がもう二度と聞けないのかと、そう思うと寂しくてたまらない──。
文●リカルド・セティオン
翻訳●利根川晶子
【著者プロフィール】
1963年8月29日生まれ、ブラジル・サンパウロ出身。ジャーナリストとして中東戦争やユーゴスラビア紛争などを現地取材した後、社会学としてサッカーを研究。スポーツジャーナリストに転身する。8か国語を操る語学力を駆使し、世界中を飛び回って現場を取材。多数のメディアで活躍する。FIFAの広報担当なども務め、ジーコやカフーなどとの親交も厚い。現在はスポーツ運営学、心理学の教授として大学で教鞭も執っている。
※『ワールドサッカーダイジェスト』2023年2月2日号より転載