マインツの頭脳であり、顔でもあった代替不可能なマネジャー。

写真は一昨シーズン、当時ドルトムントを率いたクロップ監督(中央)と談笑する、ハイデル・マネジャー(左)とシュトルツ会長(右)。この二人三脚でクラブを成長させるとともに、名将を輩出してドイツ・サッカー界にも利益をもたらした。 (C) Getty Images
1日18時間、サッカーのために生きるハイデルに、取って代われる人間などいないだろう。父親が長年マインツ市の市長だったこともあり、ハイデルがこの町に持つネットワークは広範囲に渡り、そしてドイツ・サッカー界にも様々な人脈がある。
コファス・アレーナ(2011年オープン)の建設を町の政治家たちが了承したのもハイデルのおかげだし、アウェーゲームの際、ファンのために特別電車を走らせることを最初に提案したのも彼だった。
そして、どん欲な代理人たちの要求に、時には「ナイン(ノー)」と言ってのけることができる、数少ないマネジャーのひとりでもある。前回のこの項でも紹介したように、選手を売る際、その後の何年間もマインツに収入が約束されるような契約オプションをつけさせるというやり方を、ドイツで最初に始めたのもハイデルである。
ライバルクラブにとっては怖れるべき交渉相手であり、クラブ内では状況を正しく判断できる危機管理のプロ。そして忘れてならないのが、世界中の選手に詳しいハイデルが、現在は名将となったユルゲン・クロップやトーマス・トゥヘルが駆け出しの頃にその力を認め、招聘した張本人であるということだ。
彼はマインツの頭脳であり、クラブの顔なのである。
そのような超有能な人間が抜けた後、たったひとりの後継者を連れてくるだけでは、クラブは機能しないだろう。おそらく、2、3人でハイデルの仕事を分担しなければならないはずである。では、誰がその後継者を見つけるのか? もちろんハイデル自身だ。それ以外に誰がいる?
このクラブは非常に良く組織されているが、今後は決定を下す首脳陣の体制を変えるか、あるいは組織そのものを一新する必要性が生じてくるかもしれない。
最後に奇遇なエピソードをひとつ。ドイツでハイデルの名が知られるようになったのは2005年、シャルケの伝説的マネジャーだったルディ・アサウアーと交渉し、ミモウン・アツォウアーを売った時だった。当時、この選手は膝を手術したばかりで松葉杖を使用しており、シャルケでも長期離脱を余儀なくされた。
アサウアーは騙されたと感じ、移籍金の支払いを拒んだ。しかしハイデルが、最初からオープンに交渉したことを証明したことで、シャルケは仲裁裁判に敗れたのだった。
シャルケとはそんな因縁のあるハイデルが、来年の夏にはそのクラブで、ホルスト・ヘルト・マネジャーの後継者になりそうなのである。
しかし、これだけは言っておきたい。クリスティアン・ハイデルという人間がいなくなっても、マインツは沈没したりはしない。しばらくは停滞するかもしれない。しかし、後継者探しで正しい判断を下しさえすれば、彼らはこの大きな問題も乗り越えることができるだろう。
文:ラインハルト・レーベルク 「マインツァー・アルゲマイネ新聞」コラムニスト
翻訳:円賀貴子
Reinhard REHBERG
ラインハルト・レーベルク/「ライン新聞」で1987年から27年にわたってマインツの番記者を務める。現在はフリーで、「マインツァー・アルゲマイネ新聞」のコラムニストを務める一方、監督業を志す指導者に向けたコーチングも行なっている。マインツ出身、57年7月30日生まれ。
コファス・アレーナ(2011年オープン)の建設を町の政治家たちが了承したのもハイデルのおかげだし、アウェーゲームの際、ファンのために特別電車を走らせることを最初に提案したのも彼だった。
そして、どん欲な代理人たちの要求に、時には「ナイン(ノー)」と言ってのけることができる、数少ないマネジャーのひとりでもある。前回のこの項でも紹介したように、選手を売る際、その後の何年間もマインツに収入が約束されるような契約オプションをつけさせるというやり方を、ドイツで最初に始めたのもハイデルである。
ライバルクラブにとっては怖れるべき交渉相手であり、クラブ内では状況を正しく判断できる危機管理のプロ。そして忘れてならないのが、世界中の選手に詳しいハイデルが、現在は名将となったユルゲン・クロップやトーマス・トゥヘルが駆け出しの頃にその力を認め、招聘した張本人であるということだ。
彼はマインツの頭脳であり、クラブの顔なのである。
そのような超有能な人間が抜けた後、たったひとりの後継者を連れてくるだけでは、クラブは機能しないだろう。おそらく、2、3人でハイデルの仕事を分担しなければならないはずである。では、誰がその後継者を見つけるのか? もちろんハイデル自身だ。それ以外に誰がいる?
このクラブは非常に良く組織されているが、今後は決定を下す首脳陣の体制を変えるか、あるいは組織そのものを一新する必要性が生じてくるかもしれない。
最後に奇遇なエピソードをひとつ。ドイツでハイデルの名が知られるようになったのは2005年、シャルケの伝説的マネジャーだったルディ・アサウアーと交渉し、ミモウン・アツォウアーを売った時だった。当時、この選手は膝を手術したばかりで松葉杖を使用しており、シャルケでも長期離脱を余儀なくされた。
アサウアーは騙されたと感じ、移籍金の支払いを拒んだ。しかしハイデルが、最初からオープンに交渉したことを証明したことで、シャルケは仲裁裁判に敗れたのだった。
シャルケとはそんな因縁のあるハイデルが、来年の夏にはそのクラブで、ホルスト・ヘルト・マネジャーの後継者になりそうなのである。
しかし、これだけは言っておきたい。クリスティアン・ハイデルという人間がいなくなっても、マインツは沈没したりはしない。しばらくは停滞するかもしれない。しかし、後継者探しで正しい判断を下しさえすれば、彼らはこの大きな問題も乗り越えることができるだろう。
文:ラインハルト・レーベルク 「マインツァー・アルゲマイネ新聞」コラムニスト
翻訳:円賀貴子
Reinhard REHBERG
ラインハルト・レーベルク/「ライン新聞」で1987年から27年にわたってマインツの番記者を務める。現在はフリーで、「マインツァー・アルゲマイネ新聞」のコラムニストを務める一方、監督業を志す指導者に向けたコーチングも行なっている。マインツ出身、57年7月30日生まれ。