「どうしても松本のためにピッチに戻りたい」
田中が苦悩している1年3か月の間、山雅はJリーグ参戦後、最大の苦境に直面していた。2021年は柴田峡監督(現・ラインメール青森FC監督)体制でスタートしたものの、停滞感が続いて6月に名波浩監督に交代。その後も思うように勝点を積み上げられず、まさかの最下位でJ3降格を余儀なくされた。田中は揺れ動くチームを助けられない自分に不甲斐なさを覚えたという。
一昨年、昨年のシーズン末にはクラブから今後の身の振り方に関する話もあった模様で、あくまで現役にこだわってきた田中はサッカー人生で初めて進退を真剣に考えた。
「コロナ禍の2020年末に同い年の(佐藤)寿人や2つ上の(中村)憲剛さんが引退し、昨年末には(大久保)嘉人や(田中)達也、阿部ちゃん(阿部勇樹)もユニホームを脱いだ。2010年に名古屋で一緒にJ1制覇を経験したタマさん(玉田圭司)もキャリアに区切りをつけました。同世代の仲間が去っていくことに寂しさを感じながらも、僕はそれに影響されることはなかった。先々を深く考えるようになった一番のきっかけは、やはりクラブとの話し合いでした。
現状を踏まえると、引退を現実的に捉えなければいけないのは確か。シンプルにこの右膝が良くならなければ、ピッチの上で示しもつかない。示しがつかず、プレーができなければ、もう決断しなければならない。でも、僕はどうしても松本のためにピッチに戻りたいと強く思った。自分が生まれ育った町・松本のかりがね練習場でリハビリをしていると、近所のおじさんやおばさんが『あんたがいないからJ3に落ちちゃったじゃないか』『待ってるから戻って来て』と言ってくる。別の場所に出かけてもそうです。応援してくれる人たちの言葉を聞くたびに『絶対にやめられない』と感じるんです。
僕の現状に対して賛否両論はあるし、いろんな声も耳にします。チームの負担にならないように配慮しているつもりですけど、何とか復帰して、山雅が大事にしてきた『流儀』を体現したい。今はそういう気持ちで取り組んでいます」
一昨年、昨年のシーズン末にはクラブから今後の身の振り方に関する話もあった模様で、あくまで現役にこだわってきた田中はサッカー人生で初めて進退を真剣に考えた。
「コロナ禍の2020年末に同い年の(佐藤)寿人や2つ上の(中村)憲剛さんが引退し、昨年末には(大久保)嘉人や(田中)達也、阿部ちゃん(阿部勇樹)もユニホームを脱いだ。2010年に名古屋で一緒にJ1制覇を経験したタマさん(玉田圭司)もキャリアに区切りをつけました。同世代の仲間が去っていくことに寂しさを感じながらも、僕はそれに影響されることはなかった。先々を深く考えるようになった一番のきっかけは、やはりクラブとの話し合いでした。
現状を踏まえると、引退を現実的に捉えなければいけないのは確か。シンプルにこの右膝が良くならなければ、ピッチの上で示しもつかない。示しがつかず、プレーができなければ、もう決断しなければならない。でも、僕はどうしても松本のためにピッチに戻りたいと強く思った。自分が生まれ育った町・松本のかりがね練習場でリハビリをしていると、近所のおじさんやおばさんが『あんたがいないからJ3に落ちちゃったじゃないか』『待ってるから戻って来て』と言ってくる。別の場所に出かけてもそうです。応援してくれる人たちの言葉を聞くたびに『絶対にやめられない』と感じるんです。
僕の現状に対して賛否両論はあるし、いろんな声も耳にします。チームの負担にならないように配慮しているつもりですけど、何とか復帰して、山雅が大事にしてきた『流儀』を体現したい。今はそういう気持ちで取り組んでいます」
田中の強調する「流儀」とは、規律を持って厳しく戦う姿。最後まで諦めず、全員で仲間のために、勝利のためにスプリントして、戦い抜くメンタリティだ。
2014年に加入する際、当時の大月弘士社長や加藤善之GMから「チームを変えてほしい」と求められた彼は、山雅のベースとも言うべきこうしたスタイルを常に脳裏に刻み込み、戦い続けてきた。それが多くの人の心に響いたからこそ、サンプロアルウィンに集まるサポーターが年々増加し、アウェーに赴くファンも増えていった。
2014年に加入する際、当時の大月弘士社長や加藤善之GMから「チームを変えてほしい」と求められた彼は、山雅のベースとも言うべきこうしたスタイルを常に脳裏に刻み込み、戦い続けてきた。それが多くの人の心に響いたからこそ、サンプロアルウィンに集まるサポーターが年々増加し、アウェーに赴くファンも増えていった。