「気のせい」には2通りの解釈がある。
僕の友人が「手のひらを出して、目を瞑って!」と言った。そして、「なにか熱いモノを感じたら逆の手で拳を作り強く握って」
こんな東洋医術の実験のようなことを数分、大の大人がコーヒーを飲みながらやったことがあった。なんのことだと思われるかもしれないが、今回は「気」の話だ。
僕は何度か熱いモノを感じて拳を握り、それを数回繰り返した。その間、一度も友人の手に触れることはなかった。
彼は「目を開けて」と言い、「どうだった?」と聞いてきた。僕は「うん、何度かなにかを感じた時があった」と応えると、彼はわざとらしく「きのせいだよ」と言った。
ここで素直な人なら「なんだ、気のせいかよ~」みたいなリアクションになりがちだが、そこは彼と僕との間柄、常に深い話をする仲だけにちょっと違った。どこかわざとらしく「気のせい」と言っているように聞こえたのだ。「なにか気づけ」みたいな……。
そう、「気のせい」には、もうひとつの「きのせい」があるのだ。それが「氣の勢」である。
ここで一言。
気には「ない」気と「ある」気がある!
「気のせい」と聞けばたいていの人は、気が「ない」ほうを想像する。しかし「氣の勢」、気が「ある」ほうも想像できるのである。
僕にとって、この一連のやり取りはすごく心地のいいものだった。今まで「気のせい」という言葉に持っていた概念を180度ひっくり返されたような衝撃を受けたからだ。「気がある」の「氣の勢」を見つけた!――と、得した気分になったことは言うまでもない。
こんな東洋医術の実験のようなことを数分、大の大人がコーヒーを飲みながらやったことがあった。なんのことだと思われるかもしれないが、今回は「気」の話だ。
僕は何度か熱いモノを感じて拳を握り、それを数回繰り返した。その間、一度も友人の手に触れることはなかった。
彼は「目を開けて」と言い、「どうだった?」と聞いてきた。僕は「うん、何度かなにかを感じた時があった」と応えると、彼はわざとらしく「きのせいだよ」と言った。
ここで素直な人なら「なんだ、気のせいかよ~」みたいなリアクションになりがちだが、そこは彼と僕との間柄、常に深い話をする仲だけにちょっと違った。どこかわざとらしく「気のせい」と言っているように聞こえたのだ。「なにか気づけ」みたいな……。
そう、「気のせい」には、もうひとつの「きのせい」があるのだ。それが「氣の勢」である。
ここで一言。
気には「ない」気と「ある」気がある!
「気のせい」と聞けばたいていの人は、気が「ない」ほうを想像する。しかし「氣の勢」、気が「ある」ほうも想像できるのである。
僕にとって、この一連のやり取りはすごく心地のいいものだった。今まで「気のせい」という言葉に持っていた概念を180度ひっくり返されたような衝撃を受けたからだ。「気がある」の「氣の勢」を見つけた!――と、得した気分になったことは言うまでもない。