サッカーの歴史を変えたパーフェクトな大偉人
本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
さて今回、サッカーダイジェストWebに登場するのは、高い身体能力と攻守両面での技術を誇り、サッカーの歴史をも変えてみせたカルチョの国の伝説的な名DF、ジャチント・ファケッティだ。
持ち前のリーダーシップを発揮してクラブ、代表チームの両方において多くの勝利に貢献し、引退後も人格者として誰からも尊敬された大偉人の軌跡を、ここで振り返ってみよう。
――◇――◇――
第2次世界大戦の最中の1942年7月18日、ジャチント・ファケッティはイタリア・ロンバルディア州ベルガモ県の街トレビーリオで、鉄道会社勤務の父と専業主婦の母との間に生を受けた。
この国の多くの子どもと同じように、彼も幼い頃からボールと戯れたが、成長するにしたがって身体能力が向上すると、陸上競技選手としても活躍。学生時代は100メートルを11秒台で走り、ジュニア世代のイタリア記録を樹立したこともあった。
サッカーでも、早くから才能の片鱗を見せ、14歳で地元のクラブであるザンコンティ・トレビーリオに入団、翌年にはトレビリエーゼに移ってユース年代を過ごし、技を磨いていく。この頃はFWであり、テクニック、スピード、そしてパワーを活かしてゴールを量産し、得点王に輝いたこともあった。
60年、エレニオ・エレーラ監督の目に留まり、名門インテルに加入。スペインで実績を築き「魔術師」と呼ばれたアルゼンチン人智将は、当時イタリア中に広まりつつあった「カテナッチョ」と呼ばれる堅固な守備戦術を断片的に取り入れる上で、カウンターをより効果的にするため、ファケッティをDFにコンバートする。歴史的な大英断だった。
まだマンツーマンディフェンスが主流で、DFに攻撃参加という概念がなかったこの時代に、ファケッティは自陣後方の左サイドに陣取り、守備だけでなく、チームが攻撃に転じた際には、俊足を活かして敵陣に攻め込み、クロスやパス、さらにはフィニッシュにまで絡むことを命じられた。
セリエAデビューは61年5月21日のローマ戦。この試合での彼の出来は、決して芳しいものではなかったが、この点をメディアに指摘されたエレーラ監督は「チペ(ファッケッティの愛称)は将来、インテルの柱になる」と断言。その言葉に呼応するように、18歳の少年はそこから急激な成長曲線を描いていく。
デビューシーズンはリーグ戦3試合の出場に終わるも、早くもゴールを記録。翌シーズンは15試合出場、そして62-63シーズンからは完全なレギュラーに定着し、タルチジオ・ブルニチとは絶妙なコンビネーションを形成して鉄壁な守備網の構築に貢献、9年ぶりのスクデット獲得にチームを導いた。
これにより、翌シーズンにチャンピオンズ・カップ(現リーグ)の出場権を得ると、インテルは最新鋭の戦術を駆使して勝ち進み、5度の優勝を誇るレアル・マドリーとの決勝に進出。ファケッティと同い年(インテル加入年も同じ)のFWアレッサンドロ・マッツォーラによる2ゴールなどで3-1と勝利し、初めて大陸王者に昇り詰めた。
前シーズンにベンフィカを下して初優勝を果たしていた同じ街の宿敵ミランに並んだインテルは、さらに翌シーズンも決勝の舞台に上がり、会場が本拠地サン・シーロというアドバンテージを活かして、ジャイールの一撃でベンフィカを下して欧州連覇を達成。偉業を成し遂げたチームは、「グランデ・インテル」と呼ばれた。
ファケッティは各試合、攻守で効果的なプレーを披露したが、脚光を浴びたのは準決勝のリバプール戦だ。第1レグを1-3で落として臨んだホームでのリターンマッチ、62分にカウンターから25メートルのシュートを決め、3-0として、逆転での決勝進出に大貢献を果たしたのである。
キャリアを通しての得点は75と、DFとしては驚異的な多さであり、18シーズンのうち、無得点に終わったのは3シーズンだけ。65-66シーズンには、イタリアで初めて2桁得点(10点)に達したDFという名誉を手にした。ちなみにこのシーズンは、自身3度目のスクデット獲得を成し遂げており、チームの殊勲者ともなった。
プレーだけでなく、その誠実さとリーダーシップにより、精神面でもチームを牽引。サッカーの歴史において最も完成されたチームともいわれる「グランデ・インテル」で最も強い影響力を誇った選手として、「心優しき巨人」は、今なおインテリスタの尊敬を集め続けている。
さて今回、サッカーダイジェストWebに登場するのは、高い身体能力と攻守両面での技術を誇り、サッカーの歴史をも変えてみせたカルチョの国の伝説的な名DF、ジャチント・ファケッティだ。
持ち前のリーダーシップを発揮してクラブ、代表チームの両方において多くの勝利に貢献し、引退後も人格者として誰からも尊敬された大偉人の軌跡を、ここで振り返ってみよう。
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第2次世界大戦の最中の1942年7月18日、ジャチント・ファケッティはイタリア・ロンバルディア州ベルガモ県の街トレビーリオで、鉄道会社勤務の父と専業主婦の母との間に生を受けた。
この国の多くの子どもと同じように、彼も幼い頃からボールと戯れたが、成長するにしたがって身体能力が向上すると、陸上競技選手としても活躍。学生時代は100メートルを11秒台で走り、ジュニア世代のイタリア記録を樹立したこともあった。
サッカーでも、早くから才能の片鱗を見せ、14歳で地元のクラブであるザンコンティ・トレビーリオに入団、翌年にはトレビリエーゼに移ってユース年代を過ごし、技を磨いていく。この頃はFWであり、テクニック、スピード、そしてパワーを活かしてゴールを量産し、得点王に輝いたこともあった。
60年、エレニオ・エレーラ監督の目に留まり、名門インテルに加入。スペインで実績を築き「魔術師」と呼ばれたアルゼンチン人智将は、当時イタリア中に広まりつつあった「カテナッチョ」と呼ばれる堅固な守備戦術を断片的に取り入れる上で、カウンターをより効果的にするため、ファケッティをDFにコンバートする。歴史的な大英断だった。
まだマンツーマンディフェンスが主流で、DFに攻撃参加という概念がなかったこの時代に、ファケッティは自陣後方の左サイドに陣取り、守備だけでなく、チームが攻撃に転じた際には、俊足を活かして敵陣に攻め込み、クロスやパス、さらにはフィニッシュにまで絡むことを命じられた。
セリエAデビューは61年5月21日のローマ戦。この試合での彼の出来は、決して芳しいものではなかったが、この点をメディアに指摘されたエレーラ監督は「チペ(ファッケッティの愛称)は将来、インテルの柱になる」と断言。その言葉に呼応するように、18歳の少年はそこから急激な成長曲線を描いていく。
デビューシーズンはリーグ戦3試合の出場に終わるも、早くもゴールを記録。翌シーズンは15試合出場、そして62-63シーズンからは完全なレギュラーに定着し、タルチジオ・ブルニチとは絶妙なコンビネーションを形成して鉄壁な守備網の構築に貢献、9年ぶりのスクデット獲得にチームを導いた。
これにより、翌シーズンにチャンピオンズ・カップ(現リーグ)の出場権を得ると、インテルは最新鋭の戦術を駆使して勝ち進み、5度の優勝を誇るレアル・マドリーとの決勝に進出。ファケッティと同い年(インテル加入年も同じ)のFWアレッサンドロ・マッツォーラによる2ゴールなどで3-1と勝利し、初めて大陸王者に昇り詰めた。
前シーズンにベンフィカを下して初優勝を果たしていた同じ街の宿敵ミランに並んだインテルは、さらに翌シーズンも決勝の舞台に上がり、会場が本拠地サン・シーロというアドバンテージを活かして、ジャイールの一撃でベンフィカを下して欧州連覇を達成。偉業を成し遂げたチームは、「グランデ・インテル」と呼ばれた。
ファケッティは各試合、攻守で効果的なプレーを披露したが、脚光を浴びたのは準決勝のリバプール戦だ。第1レグを1-3で落として臨んだホームでのリターンマッチ、62分にカウンターから25メートルのシュートを決め、3-0として、逆転での決勝進出に大貢献を果たしたのである。
キャリアを通しての得点は75と、DFとしては驚異的な多さであり、18シーズンのうち、無得点に終わったのは3シーズンだけ。65-66シーズンには、イタリアで初めて2桁得点(10点)に達したDFという名誉を手にした。ちなみにこのシーズンは、自身3度目のスクデット獲得を成し遂げており、チームの殊勲者ともなった。
プレーだけでなく、その誠実さとリーダーシップにより、精神面でもチームを牽引。サッカーの歴史において最も完成されたチームともいわれる「グランデ・インテル」で最も強い影響力を誇った選手として、「心優しき巨人」は、今なおインテリスタの尊敬を集め続けている。