強さの原動力は“伸ばすサッカー”
先の福島県予選を勝ち抜き、3年ぶり6回目の選手権出場権を掴んだ尚志。決勝でライバルの富岡を下して、夏のインターハイに続く全国出場を決めた。2011年度大会では4強入りしている実力校の強さの理由とは――。
※『高校サッカーダイジェスト』11月1日号増刊(9月26日発売)
――◆――◆――
尚志高は郡山駅から車で20分ほどのところにある。校舎を抜けると、2012年5月に完成した、人工芝の広いグラウンドが顔を覗かせる。
取材に訪れた8月23日は、台風で延期されていたプリンスリーグ東北の12節・尚志対盛岡商の試合が行なわれていた。尚志は8月23日現在、圧倒的な攻撃力と、組織的な守備を武器に、プリンス東北で首位をキープしている(※最終結果は2位)。
この日の試合でもその強さを見せつけた。エースストライカーの林純平が、開始わずか26分でハットトリックを達成。これで試合を完全に支配した尚志が、6-2と大勝した。
「プレミアリーグ(12年に1年間参戦)に戻ることが目標。おかげさまで今凄く調子がいい」
こう語るのは監督の仲村浩二。サッカー部の創部は1998年で、この年に監督として招聘された。だが、最初はサッカー部とは言えない状況だった。部員が5人しかおらず、最初のミーティングにやってきたのはひとりだけ。練習も学生服のままでやっている状況だった。
「最初は指導どころか、普通にサッカーをやらせるだけで大変だった。苦労したよ」
監督自ら熱心に選手獲得に動き、徐々にサッカー部らしくなっていくと、尚志はメキメキと力をつけ、県の決勝まで進むようになった。
そんな時、仲村に大きな転機が訪れた。06年、あるフェスティバルの懇親会で、習志野時代の恩師・本田裕一郎監督(現・流通経済大柏サッカー部監督)に、「四日市中央工の樋口君は選手を叱らないぞ」と言われた。「そんなことあるわけない」と思いながらも、何度も四中工の試合に足を運び、樋口士郎監督が立つベンチの裏から、名将の後ろ姿を見つめた。
「衝撃を受けた。士郎さんは子どもたちに気持ちよくプレーさせているし、どんな時も常に冷静でいる。僕は生徒がうまくプレーできないと、自分がイラついてしまって、生徒のために言葉をかけているつもりでも、感情のままに声を荒げていた。士郎さんを見習わなくてはと思った」(仲村)
ここから仲村の指導スタイルが変わった。当時は血気盛んで、思うように動かない選手を怒鳴ったこともあったが、一歩引いて冷静に見るようになった。選手たちがいいプレーを見せたら、すぐに大きな声で褒める。選手のプレーの意図や狙いをしっかりと見て、間違っていたら指摘し、そうでなければ褒める。決して甘やかすのではなく、しっかりと見た上で長所を伸ばしていく指導を心掛けた。
※『高校サッカーダイジェスト』11月1日号増刊(9月26日発売)
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尚志高は郡山駅から車で20分ほどのところにある。校舎を抜けると、2012年5月に完成した、人工芝の広いグラウンドが顔を覗かせる。
取材に訪れた8月23日は、台風で延期されていたプリンスリーグ東北の12節・尚志対盛岡商の試合が行なわれていた。尚志は8月23日現在、圧倒的な攻撃力と、組織的な守備を武器に、プリンス東北で首位をキープしている(※最終結果は2位)。
この日の試合でもその強さを見せつけた。エースストライカーの林純平が、開始わずか26分でハットトリックを達成。これで試合を完全に支配した尚志が、6-2と大勝した。
「プレミアリーグ(12年に1年間参戦)に戻ることが目標。おかげさまで今凄く調子がいい」
こう語るのは監督の仲村浩二。サッカー部の創部は1998年で、この年に監督として招聘された。だが、最初はサッカー部とは言えない状況だった。部員が5人しかおらず、最初のミーティングにやってきたのはひとりだけ。練習も学生服のままでやっている状況だった。
「最初は指導どころか、普通にサッカーをやらせるだけで大変だった。苦労したよ」
監督自ら熱心に選手獲得に動き、徐々にサッカー部らしくなっていくと、尚志はメキメキと力をつけ、県の決勝まで進むようになった。
そんな時、仲村に大きな転機が訪れた。06年、あるフェスティバルの懇親会で、習志野時代の恩師・本田裕一郎監督(現・流通経済大柏サッカー部監督)に、「四日市中央工の樋口君は選手を叱らないぞ」と言われた。「そんなことあるわけない」と思いながらも、何度も四中工の試合に足を運び、樋口士郎監督が立つベンチの裏から、名将の後ろ姿を見つめた。
「衝撃を受けた。士郎さんは子どもたちに気持ちよくプレーさせているし、どんな時も常に冷静でいる。僕は生徒がうまくプレーできないと、自分がイラついてしまって、生徒のために言葉をかけているつもりでも、感情のままに声を荒げていた。士郎さんを見習わなくてはと思った」(仲村)
ここから仲村の指導スタイルが変わった。当時は血気盛んで、思うように動かない選手を怒鳴ったこともあったが、一歩引いて冷静に見るようになった。選手たちがいいプレーを見せたら、すぐに大きな声で褒める。選手のプレーの意図や狙いをしっかりと見て、間違っていたら指摘し、そうでなければ褒める。決して甘やかすのではなく、しっかりと見た上で長所を伸ばしていく指導を心掛けた。
さっそく効果は表われた。その年、創部9年目にして、ついに選手権に初出場を果たすと、これに合わせるように仲村の出身地である千葉県からも多くの選手が入ってくるようになった。福島県出身者と千葉県出身者が仲村の指導の下で切磋琢磨し、さらに力をつけていき、11年には秋田インターハイでベスト8、第90回選手権でベスト4、翌12年には高円宮杯プレミアリーグに初参戦するなど、全国屈指の強豪にまで成長した。
「昔は帝京などと当たると、ウチの子どもたちは『帝京だよ~!』と憧れのアイドルを見る目だった。でも自分たちの力で選手権に出て、国立のピッチにも立てた。頑張れば、ある程度成果が出せる。福島でも夢は叶うと選手たちが分かってくれたことが一番嬉しい」
仲村監督は、チームの成長過程をそう振り返った。
「昔は帝京などと当たると、ウチの子どもたちは『帝京だよ~!』と憧れのアイドルを見る目だった。でも自分たちの力で選手権に出て、国立のピッチにも立てた。頑張れば、ある程度成果が出せる。福島でも夢は叶うと選手たちが分かってくれたことが一番嬉しい」
仲村監督は、チームの成長過程をそう振り返った。