J通算400試合出場は、仙台の生え抜きとしては初の偉業
いつの七夕だったか記憶は定かではない。クラブハウスに張り出されていた選手直筆の短冊に、梁勇基はこう書いていた。
「サッカーが上手くなりますように」
すでに仙台で確固たる地位を築いているにもかかわらず、まるでプロを目指す少年のような願い事をしたためていた。
果たして、その願いは叶えられたのか――。
今季J1リーグ22節のホーム横浜戦、仙台は1-2で敗れた。
「もっと技術を高めないといけない」
帰りのバスに乗り込む間際、梁はこう言って険しい表情を見せた。この試合で梁は二度、GKと1対1の絶好機を迎えたものの「一度目はコースが甘かった。二度目はニアの上を狙ったけど、シュートが低くてGKに当たってしまった」。
残念ながら、願いはまだ叶えられていないのかもしれないが、少なくとも梁のスタンスにブレはない。常に課題を見つけ出し、向上心を持ち続け、現状に決して満足しない。主戦場は左MFだが、ボランチやトップ下など新たな役割を求められるたびに、自らの可能性がさらに広がることを誰よりも期待しているのが、他でもない梁自身である。
今年、32歳を迎えた。年齢で判断されてしまうことが少なからずあるサッカー界において、梁は「それを思ったら、この先、何もできない」とかつて言っていたことがある。30歳を過ぎてからも輝きが色褪せない選手がいるのも事実だ。昨シーズンのリーグMVPを獲得した時の中村俊輔の年齢は35歳である。
「だから試合をしていても、そういう選手のプレーをけっこう観ます。中村俊輔さんだったり、中村憲剛さんだったり。どういう風に動いているのか自然と追ってしまいますね」
横浜戦では、その中村俊の正確なCKから2失点を喫した。試合に負けた悔しさを噛み締めると同時に、手本とすべき選手の活躍を目の当たりにして、梁の向上心はさらに刺激されて、モチベーションは上がったに違いない。
そしてこの試合は、梁にとってメモリアルゲームでもあった。
04年のトップデビュー以来、プロ生活11年目で到達したJ通算400試合出場。仙台の生え抜きとしては初の偉業である。
「記録にはあまり興味がないですね。ほとんどがJ2ですし」と本人はどこかそっけない。100試合、200試合、300試合と節目となるゲームについても覚えていないという。
ただ、プロとしての第一歩を刻んだ頃の記憶は鮮明だ。04年4月11日、アウェー鳥栖戦で記念すべきデビューを飾る。結果は0-3の敗戦。フィジカルの違いを痛感した。その後、3試合連続でベンチにも入れなかった。「悔しい想いをしたのはよく覚えています」と当時を振り返る。
とはいえ、1年目は32試合に出場するなどまずまずのルーキーイヤーを過ごす。翌年は完全に定位置を勝ち取り、3年目から背番号10を背負うことに。キャプテンを務めた08年には自身初のふた桁得点を記録(42試合・13得点)。10年のJ1昇格後も不動の司令塔としてフル稼働し、昨シーズンは初めて筋肉系の怪我で戦列を離れる時期もあったが、それでも30試合に出場した。
そうして積み上げてきた400という数字。梁は「ここまで来られたのは、支えてくれた家族やスタッフのおかげ」と感謝を口にする。そして「子どもたちが物心つくまでやりたい」とさらなる記録更新を誓った。
400試合出場も、単なる通過点に過ぎない。あの短冊に込めた想いを胸に、梁勇基というフットボーラーの歴史はこれからも紡がれていく。
取材・文:広島由寛(週刊サッカーダイジェスト)
協力:高橋宏磁(報知新聞社)
「サッカーが上手くなりますように」
すでに仙台で確固たる地位を築いているにもかかわらず、まるでプロを目指す少年のような願い事をしたためていた。
果たして、その願いは叶えられたのか――。
今季J1リーグ22節のホーム横浜戦、仙台は1-2で敗れた。
「もっと技術を高めないといけない」
帰りのバスに乗り込む間際、梁はこう言って険しい表情を見せた。この試合で梁は二度、GKと1対1の絶好機を迎えたものの「一度目はコースが甘かった。二度目はニアの上を狙ったけど、シュートが低くてGKに当たってしまった」。
残念ながら、願いはまだ叶えられていないのかもしれないが、少なくとも梁のスタンスにブレはない。常に課題を見つけ出し、向上心を持ち続け、現状に決して満足しない。主戦場は左MFだが、ボランチやトップ下など新たな役割を求められるたびに、自らの可能性がさらに広がることを誰よりも期待しているのが、他でもない梁自身である。
今年、32歳を迎えた。年齢で判断されてしまうことが少なからずあるサッカー界において、梁は「それを思ったら、この先、何もできない」とかつて言っていたことがある。30歳を過ぎてからも輝きが色褪せない選手がいるのも事実だ。昨シーズンのリーグMVPを獲得した時の中村俊輔の年齢は35歳である。
「だから試合をしていても、そういう選手のプレーをけっこう観ます。中村俊輔さんだったり、中村憲剛さんだったり。どういう風に動いているのか自然と追ってしまいますね」
横浜戦では、その中村俊の正確なCKから2失点を喫した。試合に負けた悔しさを噛み締めると同時に、手本とすべき選手の活躍を目の当たりにして、梁の向上心はさらに刺激されて、モチベーションは上がったに違いない。
そしてこの試合は、梁にとってメモリアルゲームでもあった。
04年のトップデビュー以来、プロ生活11年目で到達したJ通算400試合出場。仙台の生え抜きとしては初の偉業である。
「記録にはあまり興味がないですね。ほとんどがJ2ですし」と本人はどこかそっけない。100試合、200試合、300試合と節目となるゲームについても覚えていないという。
ただ、プロとしての第一歩を刻んだ頃の記憶は鮮明だ。04年4月11日、アウェー鳥栖戦で記念すべきデビューを飾る。結果は0-3の敗戦。フィジカルの違いを痛感した。その後、3試合連続でベンチにも入れなかった。「悔しい想いをしたのはよく覚えています」と当時を振り返る。
とはいえ、1年目は32試合に出場するなどまずまずのルーキーイヤーを過ごす。翌年は完全に定位置を勝ち取り、3年目から背番号10を背負うことに。キャプテンを務めた08年には自身初のふた桁得点を記録(42試合・13得点)。10年のJ1昇格後も不動の司令塔としてフル稼働し、昨シーズンは初めて筋肉系の怪我で戦列を離れる時期もあったが、それでも30試合に出場した。
そうして積み上げてきた400という数字。梁は「ここまで来られたのは、支えてくれた家族やスタッフのおかげ」と感謝を口にする。そして「子どもたちが物心つくまでやりたい」とさらなる記録更新を誓った。
400試合出場も、単なる通過点に過ぎない。あの短冊に込めた想いを胸に、梁勇基というフットボーラーの歴史はこれからも紡がれていく。
取材・文:広島由寛(週刊サッカーダイジェスト)
協力:高橋宏磁(報知新聞社)