現在、数多くの日本人選手が、アジア各国でプレーしている。彼らは日本代表であり、Jリーグをはじめとするアジアのトップリーグを支えている貴重なプロフェッショナルプレーヤーたちだ。そのなかで孫は「ACLでのJリーグ勢との対戦&Jリーグ入り」を目標に掲げて戦ってきた。
30歳を迎えた俊英センターバックの熱き挑戦は、香港で新たな物語を紡ぎ出す。
これまでの海外挑戦の経緯、そして主にインド生活での数知れないエピソードのいくつかを、孫に語ってもらった。
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――FC琉球、FCコリアでプレーしたあと、どういった経緯でインドに渡ったのですか?
「最初はタイのクラブから話をいただいて現地に行ってみると、『カップ戦しか出られない』という契約だと分かったんです。それでは無理だと代理人に相談したところ、『じゃあインド、どうだ』と言われたんです」
――すごい展開ですね。
「はい。え、インド!? って。当時はまったく想像できませんでした。ただ海外でプレーしてみたいと思っていて、いろいろ話を聞くと、とても待遇が良く、クラブの態勢もしっかりしていたので、シロ・ラジョンと正式契約に至りました。ラジョンの町はとてもサッカー熱が高く、観客数も毎試合2万5~6000人が入って、それでいてとてもファミリー的なチームでした」
――ちょうどインドの国内リーグが盛り上がっていった時代ですね。
「そうですね、インドが好景気に沸き、プロのサッカーチーム数が増え、選手のサラリーも上がり始めた時期でした。タイミングはとても良かったです」
――孫選手は12年からインドに渡り、14年にはデル・ピエロ選手もデリーでプレーしていましたね。
「それに二コラ・アネルカ、ダヴィド・トレゼゲ(いずれも元フランス代表)も来ましたからね。盛り上がりはすごかったです。僕が渡った2012年は、スーパーリーグで外国人選手はプレーできないルールになっていて、その後、改正されていったんです」