「すぐにポルトガル語を覚えるよ」
カルロ・アンチェロッティ――。欧州で栄光を極めた男は、今、ブラジルで激動の日々を送っている。
5月26日、ブラジル代表の監督就任会見に臨み、6月上旬の2026年わールドカップ南米予選2試合に向けた招集メンバーを発表。この日はスペイン語で受け答えしたが、「すぐにポルトガル語を覚えるよ」と笑った。
イタリア語、スペイン語、ポルトガル語は文法構造が似ていて、共通の単語も多い。彼がポルトガル語を習得するのは時間の問題だろう。
27日にはブラジルサッカー連盟のミュージアムを訪れてこの国のフットボールの歴史に触れ、夜にはボタフォゴの試合を視察。28日にフラメンゴの試合を視察し、31日にはコルコバード(小山の上に建つ巨大なキリスト像で、リオデジャネイロの観光名所のひとつ)を訪問。居合わせた市民や観光客から歓迎を受けた。
6月2日、サンパウロでセレソンの初練習を指揮し、4日にエクアドルへ移動。5日の試合は0-0の引き分け。翌日にはブラジルに戻って練習を再開した。
10日、サンパウロでパラグアイ戦に臨む。この日は66回目の誕生日で、スタンドには「おめでとう、カルレット(アンチェロッティの愛称)」の巨大な人文字が出現。愛弟子ヴィニシウスのゴールで1-0と勝ち切り、セレソンの23大会連続となるW杯出場を決めた。
試合後、「守備は合格点。攻撃もエクアドル戦よりずっと良かった」と語り、「この国での最初の15日間は、自分の人生の中でも格別に印象深い」と笑顔を見せた。
5月26日、ブラジル代表の監督就任会見に臨み、6月上旬の2026年わールドカップ南米予選2試合に向けた招集メンバーを発表。この日はスペイン語で受け答えしたが、「すぐにポルトガル語を覚えるよ」と笑った。
イタリア語、スペイン語、ポルトガル語は文法構造が似ていて、共通の単語も多い。彼がポルトガル語を習得するのは時間の問題だろう。
27日にはブラジルサッカー連盟のミュージアムを訪れてこの国のフットボールの歴史に触れ、夜にはボタフォゴの試合を視察。28日にフラメンゴの試合を視察し、31日にはコルコバード(小山の上に建つ巨大なキリスト像で、リオデジャネイロの観光名所のひとつ)を訪問。居合わせた市民や観光客から歓迎を受けた。
6月2日、サンパウロでセレソンの初練習を指揮し、4日にエクアドルへ移動。5日の試合は0-0の引き分け。翌日にはブラジルに戻って練習を再開した。
10日、サンパウロでパラグアイ戦に臨む。この日は66回目の誕生日で、スタンドには「おめでとう、カルレット(アンチェロッティの愛称)」の巨大な人文字が出現。愛弟子ヴィニシウスのゴールで1-0と勝ち切り、セレソンの23大会連続となるW杯出場を決めた。
試合後、「守備は合格点。攻撃もエクアドル戦よりずっと良かった」と語り、「この国での最初の15日間は、自分の人生の中でも格別に印象深い」と笑顔を見せた。
ブラジルはラテン・ヨーロッパの影響が強く、イタリアやスペインとは文化や習慣、メンタリティーも似ている。彼がこの地に馴染むのも時間の問題だろう。
しかも、一人ぼっちではない。夫人とともにリオに住む予定で、息子と娘婿もコーチングスタッフに加わっている。つまり、家族全員で移り住んでいるのだ。
とりあえず、最初の関門は突破した。だが、問題はここからだ。
今後、セレソンにどのような変革を起こすのか。来年のW杯までにどんなチームを作り上げ、最終的にどのような成績を残すのか──。ブラジルのメディアと国民は、「カルレット」の一挙手一投足に熱い視線を送っている。
文●沢田啓明
【著者プロフィール】
1986年にブラジル・サンパウロへ移り住み、以後、ブラジルと南米のフットボールを追い続けている。日本のフットボール専門誌、スポーツ紙、一般紙、ウェブサイトなどに寄稿しており、著書に『マラカナンの悲劇』、『情熱のブラジルサッカー』などがある。1955年、山口県出身。
【記事】「日本は凄まじいチームだった」インドネシアのエースは0-6惨敗に茫然…容赦ない森保Jに脱帽 なかでも厄介だった選手は?「エキサイティングなプレーヤーだ」
【記事】「がっかりしたよ」欧州名門主将が日本人エースの退団に本音「僕らの主役だったのに…」
しかも、一人ぼっちではない。夫人とともにリオに住む予定で、息子と娘婿もコーチングスタッフに加わっている。つまり、家族全員で移り住んでいるのだ。
とりあえず、最初の関門は突破した。だが、問題はここからだ。
今後、セレソンにどのような変革を起こすのか。来年のW杯までにどんなチームを作り上げ、最終的にどのような成績を残すのか──。ブラジルのメディアと国民は、「カルレット」の一挙手一投足に熱い視線を送っている。
文●沢田啓明
【著者プロフィール】
1986年にブラジル・サンパウロへ移り住み、以後、ブラジルと南米のフットボールを追い続けている。日本のフットボール専門誌、スポーツ紙、一般紙、ウェブサイトなどに寄稿しており、著書に『マラカナンの悲劇』、『情熱のブラジルサッカー』などがある。1955年、山口県出身。
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