トップダウンでの波及効果が、日本では圧倒的に少ない。
伝える。
それはサッカーというスポーツにおいて、基本的要素と言える。指導者が選手に対する時も、その逆も、選手同士でも当然そうだし、あるいは選手とメディアの関係でも同じだろう。
お互いのコミュニケーションに隔たりや食い違いがあった場合、良好な関係は保てないし、生産性は低くなってしまう。
とりわけ、大人から子どもに伝える、という行為は困難を極める。もし日本サッカーの育成が欧州や南米に劣っている点があるとすれば、それは日常生活における伝達行為に潜んでいるかもしれない。
欧州や南米の選手たちは日本人選手について、「技術も体力もあるけど、戦術能力が低い」と意見する場合が多いが、それは子ども同士のゲームでも共通している。相手と向き合って戦った際に濃厚に出る戦術的誤り、あるいは誤りとまで断言しないとしても、それは欧州や南米の子どもたちとの環境差に通ずる。
というのも欧州や南米の少年たちは、幼い頃から大人のプレーを日常的に見て、矛盾のない動きがすり込まれている。言い換えれば、正しい動き方が意識や肉体に伝わっているのだ。
「メッシやイニエスタのようにプレーしたい」
子どもたちの日常の延長にはスーパースターがおり、彼らはそれを嬉々として手本とし、練習や遊びの中で繰り返して、自らにすり込ませている。
この伝わり方の差は大きい。
日本ではJリーグを観られるのは、限られた家庭である。欧州サッカーに関しても似たような環境だろう。スポーツニュースにしても、サッカーが大きく取り上げられるのは代表のゲームだけであって、週末の試合の報道は限定的である。また、どの町にもスタジアムがあるわけでもない。
トップダウンでの波及効果が、日本では圧倒的に少ないのである。
つまるところ日本では、伝えるという部分を、指導者が“教える”という行為に転換せざるを得ない。しかし、伝えるのと教えるのとは本質的に違う。伝える、という行為には、伝える側だけでなく受け取る側の意志も強く働くが、教えるというのは受け取る方は受動的である。そもそも、教える役を果たす人が必ずしも正しいとは限らない。
それはサッカーというスポーツにおいて、基本的要素と言える。指導者が選手に対する時も、その逆も、選手同士でも当然そうだし、あるいは選手とメディアの関係でも同じだろう。
お互いのコミュニケーションに隔たりや食い違いがあった場合、良好な関係は保てないし、生産性は低くなってしまう。
とりわけ、大人から子どもに伝える、という行為は困難を極める。もし日本サッカーの育成が欧州や南米に劣っている点があるとすれば、それは日常生活における伝達行為に潜んでいるかもしれない。
欧州や南米の選手たちは日本人選手について、「技術も体力もあるけど、戦術能力が低い」と意見する場合が多いが、それは子ども同士のゲームでも共通している。相手と向き合って戦った際に濃厚に出る戦術的誤り、あるいは誤りとまで断言しないとしても、それは欧州や南米の子どもたちとの環境差に通ずる。
というのも欧州や南米の少年たちは、幼い頃から大人のプレーを日常的に見て、矛盾のない動きがすり込まれている。言い換えれば、正しい動き方が意識や肉体に伝わっているのだ。
「メッシやイニエスタのようにプレーしたい」
子どもたちの日常の延長にはスーパースターがおり、彼らはそれを嬉々として手本とし、練習や遊びの中で繰り返して、自らにすり込ませている。
この伝わり方の差は大きい。
日本ではJリーグを観られるのは、限られた家庭である。欧州サッカーに関しても似たような環境だろう。スポーツニュースにしても、サッカーが大きく取り上げられるのは代表のゲームだけであって、週末の試合の報道は限定的である。また、どの町にもスタジアムがあるわけでもない。
トップダウンでの波及効果が、日本では圧倒的に少ないのである。
つまるところ日本では、伝えるという部分を、指導者が“教える”という行為に転換せざるを得ない。しかし、伝えるのと教えるのとは本質的に違う。伝える、という行為には、伝える側だけでなく受け取る側の意志も強く働くが、教えるというのは受け取る方は受動的である。そもそも、教える役を果たす人が必ずしも正しいとは限らない。